サン・ニコラの日、シンタクラース祭
『サン・ニコラの日』『シンタクラース祭』は、12月6日に定められたキリスト教の聖人サン・ニコラの祝祭(日)です。12月25日がイエス・キリストの誕生を祝う日と定められると、サン・ニコラはサンタクロースのモデルにもなっていきます。
サン・ニコラ
サン・ニコラは4世紀に実在した人物で、小アジアの古代国家リキュアのミュラ(現トルコのデムレ)という地中海をのぞむ都市の、大司教という地位にあった人物です。弱きものを救うための数々の善行と、いくつもの奇跡を起こしたとされ、342年12月6日に亡くなると、彼が埋葬された聖ニコラス教会は巡礼の場になりました。
550年 にはギリシャ・カトリック教会によって聖人に列せられます。
11世紀後半イスラム教のセルジューク朝トルコがこの地域に侵入し征服されると、1087年 破壊を恐れた船乗りたちによって聖人の遺骨は南イタリアのバーリに運ばれ、サン・ニコラ教会に安置されることに。以後そこは巡礼者を集めることとなり、これを期に西ヨーロッパでも聖ニコラスへの崇拝が広まっていくのです。
ニコラウスは海上で大嵐にあった船乗りを助けて海を鎮めたエピソードから、海運や船員の守護聖人であったため、10世紀には西ヨーロッパの沿岸諸国でも支持を得て、海運国オランダのアムステルダム、ベルギーのフランデン地域のアントワープなど港湾都市の教会の守護聖人となります。
12月6日がサン・ニコラの祝日に
13世紀に彼の聖名祝日が12月6日に固定されると、ヨーロッパ全土でニコライ崇拝が強化され、12月6日は『サン・ニコラの祝日』になりました。『サン』は聖人を表し、フランス語圏で『サン・ニコラ』、英語圏で『セント・ニコラウス』と呼ばれ、オランダ語圏では『シンタクラース』
以来800年 今ではサン ニコラの日はベネルクス3国、ドイツ、オーストリアの一部、スイス、イタリア、フランスの東北部を中心に祝われています。
中世には、ドイツと北フランスの修道院の学校で聖ニコラスの祝日が祝われるようになります。修道士や子供たちにより、ニコラウスが起こした奇跡の劇が上演され、1360年 ドルドレヒトに、子供たちが仮装して街をパレードし、見物人や司教からご祝儀のお駄賃をもらった記録が残ります。同様の伝統は、スイスのクラウスハーゲンなどの他国にも今日でも存在します。
中世後期12月6日『サン・ニコラの祝日』には教会前やマルクト広場に市がたち、人々はミサの後、祝宴のための食材や贈り物を購入するのを楽しみにしていました。中でも人気を集めたのはジンジャーブレッドでした。青年がジンジャーブレッドを買い求め、意中の女性にプレゼントし、彼女がそれを受け取ったら、プロポーズの成立!と、愛のキューピッド役として使われたのです。
15世紀のオランダでは、シンタクラースの祝いの日に貧しい人々が教会に靴を置くと、裕福な市民による献金を教会が靴に入れて分配されるようになります。
16世紀 12月5日の夜 子供たちはシンタークラースの歌を歌い、ブーツにオーツ麦や藁、にんじんを詰めてベッドに入りました。翌朝目覚めた子供達はブーツに入っているリンゴやクッキー、レーズンや木の実、またはお金、おもちゃ、キャンディー、ジンジャーブレッド、マジパンなどシンタクラースのプレゼントを見つけて大喜び そしてニンジンがかじられ、藁が無くなっているのを見て、シンタクラースがのってきたロバが食べたことを確認したのでした。このプレゼントは教育的側面も持ち合わせ、1年間良い子にして過ごすと嬉しいプレゼントをもらうことができたけれど、悪い子のブーツには塩の棒が入っていたのだそう…
ネーデルランド地方ではその後社会の変化を背景に、独特のシンタクラース祭が発展していきます。
ネーデルランドの歴史
現代のオランダ、ベルギー、ルクセンブルク3カ国にあたるベネルクス地域はネーデルランド「低地地方」と呼ばれ、古代ローマのカエサルが侵攻したことでローマ帝国領に。476年ローマが滅亡するとフランク王国に支配され、843年にフランク王国が分裂すると、今度は東フランク王国に吸収されます。その東フランク王国は神聖ローマ帝国に姿を変えてゆくのですが、中でもオランダの南部、ベルギーの西部、フランス北部にかけてのエリアは「フランドル」と呼ばれ、中世の早い時期からリネンやボビン・レースなど繊維産業が発達し、11世紀以降はイングランドから輸入した羊毛を原料にした毛織物産業が盛んになり、ヨーロッパで最も裕福な地域として繁栄した歴史をもちます。
そこではフランドル伯などの諸侯や司教が分立して領地を治め、統一的支配者が不在の状態が続きましたが、一転15世紀にフランドルがブルゴーニュ公国に併合されて以来、1543年にはフランドルを含むネーデルランド全域がハプスブルク家領に組み込まれ、1556年 ハプスブルク家がスペイン系とオーストリア系に分かれると、スペイン=ハプスブル家の領土へと支配者が変わります。
一方16世紀初頭ドイツで始まったキリスト教改革運動はまたたく間にヨーロッパ中に広がっていきました。商工業の発展を背景にこの地にも宗教改革が浸透し、商人層にカルヴァン派の新教徒が増えていたのですが、スペインの新王フェリペ2世は重豊かなこの地域に重税を課すと共に カトリック信仰を強制 厳しい新教弾圧を実施し、支配を強めようとします。
これに対し、経済的自立と宗教の自由を求めて、ネーデルランドは1568年スペインからの独立戦争を開始 長引く独立戦争の中、新教徒の多い北部地域7州は粘り強く抗戦を続け、1581年に『ネーデルラント連邦共和国』(オランダ)として独立を宣言し、1648年に承認されて、プロテスタントの国として独立を果たします。
それに対し、スペイン領として残った南部のカトリック地域10州はその後オーストリア、フランス、オランダと外国からの過酷な支配を受け続け、1830年の独立戦争によって初めて『ベルギー王国』として独立することになります。1867年にはネーデルラントの一部であった『ルクセンブルク公国』が成立し、ネーデルランドはベネルクス3国となって今に至るのです。
2枚の絵画
プロテスタントの国となったオランダ、カトリックが多くを占めるベルギーでは、お菓子にも宗教改革の影響が強く投影された時期がありました。
ネーデルランドに残る14~15世紀の文献に、その名を見ることができる『Speculaasスペキュラス』は『サン ニコラの日』のための祝い菓子として、12月6日の祝日を中心に食べられてきた伝統があります。サン・ニコラは生前弱きものを助け、いくつもの奇跡を起こしたといわれ、6世紀にカトリック教会において、聖人に列せられました。その命日である12月6日は、偉業を偲び、お祝いする日 サン・ニコラは子供の守護聖人でもあるため、12月6日は子供の日ともされ、プレゼントにスペキュラスが用意されたのです。
これに対し、「聖人はあくまでも人間であり、イエスを唯一神の子として崇めるべきとする聖書の教えに反する」として、プロテスタントにとっては、サン・ニコラは認めることができない存在
画家ヤン・ステーン Jan Steen,(1626-1679)がオランダ独立間もない1665年から1668年に描いた『聖ニコラウスのお祭り』は、お祭りを祝う12月5日の夜の家族を描いたものですが、時代を反映して2点のヴァージョンが描かれました。
最も知られているカトリック教徒のために制作された作品では画中の中央に描かれた少女は聖人の衣装を着た人形を抱いて、右側父親?に抱かれている子供は、プレゼントされたのでしょう。本人のお顔より大きい聖ニコラウスを象ったスペキュラス(ジンジャーブレッドマン)を手に持っています。(アムステルダム国立美術館所蔵)
さらに、画面下の向かって左側には、蜂蜜入りケーキ、スペキュラス(ジンジャーブレッド)、ワッフル、リンゴなど様々なお菓子の入った籠が描かれ、床には胡桃や栗が散乱して、当時のクリスマスの祝い菓子を知る手がかりにもなっていますので、ご注目ください。
17世紀当時のプロテスタント社会では、聖人 (とりわけサン・ニコラ) を象ったパンを焼くことは禁止され、1655年、ユトレヒト市では、そうしたパンやケーキを禁止する発令が出されたほどでした。そんな世相を意識して、プロテスタント教徒のための作品では、少女は丸い大きなジンジャーブレッドをもらって描かれています。 (聖カタリナ修道院博物館蔵、ユトレヒト)
プロテスタント国となったネーデルラント連邦共和国:オランダの行政は公共の場で12月6日のシンタクラース(サン・ニコラ)の祝祭を禁じたものの、国内のカトリック教徒を配慮し、家庭の中でのシンタクラースの祝祭は許可していました。そのような背景があって、オランダ在住の画家ヤン・ステーン はプロテスタントとカトリックそれぞれの信徒用に2枚の絵画を描いたのでしょう。
長年子供達の躾にも貢献し、楽しみに待たれていた祝祭日にサンニコラを描かなくなったプロテスタント地域で、代わりにプレゼントを運んでくるとして描かれたのは、「ズヴァルテ クラース」と呼ばれ、足に鎖や道化師の鐘を付けた黒人男性の像でした。良い子にはキャンディを与え、悪い子にはお仕置きをしました。
18世紀も後半になると、ズヴァルテ クラースのイメージが好まれなくなり、プロテスタント地域にも司祭姿のサン・ニコラが戻ってきます。
スペインからやって来るサン・ニコラ
長年の民間で伝承される中、サン・ニコラ像はより具体性を帯びて、17世紀には、サン・ニコラは「スペインからプレゼントをもってやってきて、良い子にプレゼンを渡してくれる」と語られるようになっていました!
サン・ニコラはトルコ南部ミュラ(現デムレ)の司教で、現地で葬られましたが、1087年遺骸が南イタリアのバーリーに移されました。そこは1442年 アラゴン王 アルフォンソ5世に征服され、以降18世紀までスペイン・ハプスブルク朝領地の一部であったことから、「サン・ニコラは遺骨が葬られているスペインからやってくる…」のです。
今に続くサン・ニコラ像を決定づけたのは、教師であり人気の詩人でもあったオランダ人 Jan Schenkmanヤン・シェンクマン(1806~1863)が1850年に描いた絵本『Sint Nikolaas en zijn Knecht:聖ニコラスとその召使い』によると言われています。
彼によれば、聖ニコラスは「スペインの司教」であり、絵本は「見よ、あそこに蒸気船がやってくる / スペインから再び到着する!」というセリフで始まり、サン・ニコラはスペインから蒸気船で到着し、黒人の従者を伴って描かれました。
この絵本は人気があり、白いひげと髪、赤い留め帽とマントを着た威厳のある姿で描かれるシンタークラースと、黒い肌をした側近のイメージを定着させていきました。
このような時代をへて現在のオランダ、ベルギーのサン・ニコラの日はといいますと、…19世紀まではお話の中で聞いてイメージを膨らませていたサン・ニコラ:シンタクラースが、実物となって、従者『ズワルトピート Zwarte Piet』を伴って、子供たちの前に現れます。
11月中旬(11月11日の後の最初の土曜日)シンタクラース祭(サン・ニコラ)は、ズワルトピートをお供に従え、スペインからやってきて、海沿いの町の港に蒸気船で到着するところから始まります!
ズワルトピートZwarte Pietは「黒いピート」の意味で、スペインから来たムーア人とされるため顔を黒く塗り、レースの襟と羽飾りのついた帽子で飾り立てられた16世紀の貴族の衣装に準じた衣装をまとうのが伝統的 シンタクラースは白く長いあごひげをもち、白い僧の祭服の上に赤い長ケープをまとい、赤い司教冠をかぶり、ルビーの指輪、金色の杖を持っています。
蒸気船が錨(いかり)を降ろすと、シンタクラースが上陸して、白馬にのってパレードが始まります。子供達がシンタクロースの歌を歌って歓迎する中 ズワルトピートがお菓子の入った小袋を群衆に投げると大盛り上がり! この様子はオランダ、ベルギーの国営放送で中継生放送され、国をあげてのお祭り騒ぎ🎵 ドックをもたず、船が着岸できない地域では、シンタクロースは鉄道、馬、馬車などでやってきて到着祭りが始まります。
この到着から12月5日までの間 シンタクラースは学校、病院、老人ホームなどの慰問に忙しく、夜は白馬にのって空を飛び、またロバにのって、良い子にプレゼントを届けると言われてきました。
歴史と共に…
時代と共にイベント性が強く変わっていますが、伝統的にはシンタクラースは子供1人1人の1年間の行いが書かれた赤い表紙の厚い本をもち、良い子にはお菓子やみかんやリンゴ、おもちゃ等をプレゼントしてくれるけれど、悪い子はズワルトピートが袋に入れてスペインに連れ去られてしまうといわれ、そのためズワルトピートは悪い子を叱って叩くための白樺の鞭と、連れ去るための袋を持参している…子供の躾を意識したお祭りでした。
カラフルな衣装に黒い肌のズワルトピートの姿は、1863年に奴隷制を廃止するまでオランダが大西洋をまたいだ奴隷貿易に深く関わっていた歴史が反映していると言われます。奴隷の人たちを米国に売ったり、自国の植民地に送って働かせて富を築き、一部の貴族は奴隷にした黒人の子供たちを「贈り合う」こともしていた時代 ズワルトピートの衣装によく似たカラフルなムーア人風の服を着た黒人の子供達が描かれた絵画が残されており、当時の様子を知ることができます。
19世紀ズワルトピートが登場する以前 サンニコラはもっと不気味な恐ろしい姿の従者を伴っていたといいますから、子供達はさぞかし怖かったことでしょうね。
今でもベネルクス三国や北フランスエリアでは12月5日の夜 サン・ニコラはお供にフェーター(ピーター)を伴い、ロバに乗って、眠っている子供たちのもとにやってきます。そしてプレゼントをおいていってくれる。伝統的にスペキュロスはプレゼントに欠かせないお菓子で、サン・ニコラの日 子供達はホットココアとともに食べるのを楽しみにしてきました。スパイスや蜂蜜、お砂糖が大変高価だった頃、それらを材料に使うスピキュロスは1年に1度の特別な日のお楽しみプレゼントだったのです。
今でも子供たちはベットに入る前 ロバのためにニンジンや藁を、サン・ニコラのためにビールやコーヒーを、ペールフェーターのためにジャガイモを、そして翌年のお菓子を作るためのお砂糖をお皿にのせて置いておくのを忘れません。12月25日のクリスマスの習慣が定着する前から子供達が楽しみにしていた行事です。