ティルゲル Tirggel … 繊細で上品な食べられる芸術品 …
『ティルゲル』は繊細なレリーフが美しいその姿から「食べられる芸術品」と称され、スイス チューリッヒで600年作り継がれる伝統菓子です。
その製法は、たっぷりの蜂蜜に水を加えたハニーペーストに小麦粉を合わせて生地をつくり、半日から1日やすませます。生地が落ち着いたところで、木型を使って型取りし、高温で焼いたら出来上がり。卵やバター、膨張剤も使わないからとても硬~い! ポリっと折った断片をしばらく口の中においておくと、にわかに蜂蜜が溶け出して、優しい甘みが口いっぱいに広がります。紅茶やコーヒーに浸して柔らかくなったティアゲル をいただくのも楽しい味わい方の一つ。クリスマスと春のお祭り『セクセロイテン』には欠かせないチューリッヒ市民のソウルフードとして大切にされています。
こちらはほぼ実寸大の miniサイズ 繊細なレリーフに心奪われ、お口の中に入れるのがためらわれるのは私だけではないのでは…?
2023年12月 チューリッヒを訪れ、ヤコブ財団でティルゲル作りの工房を見学させていただく機会に恵まれました。その記録と資料も加えながら、紀元前1世紀からこの地を支配したローマが伝えたパンケーキ『プラチェンタ』を起源とするティルゲルの歴史を紐解いてみましょう。
中央駅から徒歩で15分ほど … チューリッヒ「発祥の地」といわれる『リンデンホフの丘』に登ると、丘の上は公園になっており、足元にはリマト川が流れ、その向こうに旧市街が一望できて、散策への期待が一気に高まります。『リンデン』はドイツ語で『菩提樹』を、『ホフ』は『公園、中庭』を表す言葉 公園はその名の通り菩提樹に囲まれて、私が訪れた12月半ばに見上げる菩提樹はすっかり葉を落として冬晴れの空に映えていました。
紀元前1世紀この地に侵攻してきたローマ人は氷河が運んできた堆石からなるこの丘に関所をおいて、リマト川を往き来する船から通行料の徴収を始めます。この関所のことをラテン語で『ツーリクム Turicum』といい、それが『チューリッヒZurich』の名前の由来になったそう。
街はアルプスを南北に横断してイタリアとドイツを結ぶ街道の宿場町でもありましたから、商業および交通の要所として栄え、以来2000年あまり…チューリッヒ湖の北端 湖から流れ出すリマト川両岸に歴史を伝える旧市街が広がります。
ランチを挟んで数時間 青空が雲に覆われてしまったけれど、暮れなずむパノラマもアンティーク風な風情あり…? 遠くそびえるグロスミュンスターの2本の尖塔の向こうはリマト川の河口で、チューリッヒ湖に続きます。 ↓リンデンホフの丘から旧市街を臨む…
ケルト人とローマ人と蜂蜜パンケーキ
ケルト人は紀元前5世紀頃中央アジアの草原から馬と車輪付きの馬車を携え移動して、アルプス山脈以北のヨーロッパに広く住みついた民族で、最初の定住地はライン川やドナウ川上流の南ドイツ地域と考えられています。
農耕や牧畜の優れた技術をもち、西ヨーロッパに鉄器文化をもたらしましたが、馬や馬車(戦車)を駆使して騎馬民族としても活動するようになり、前8世紀頃から前3世紀頃にかけて大ブリテン島(現イギリス)、現フランス地域からイベリア半島(現スペイン)さらにバルカン半島に侵入し、ギリシアを経てエーゲ海を渡り、アナトリア(現トルコ)にまで至った部族もありました。
一方 イタリア半島の統一を進めたローマは、ケルト人を「ガリア人」その居住する地域を広く「ガリア」と呼んで、次第にガリアの地に侵出し、征服していきます。
紀元前2世紀までにアルプス山脈を挟んでその南エリアを属州とし、前1世紀にはアルプス山脈を超えて北側エリアにも侵攻 その南部を征服し、属州に組み込みます。これに対し、現スイスの西部山岳地帯に居住して唯一独立を保っていたケルト人の一派ヘルウェティイ族は大変勇猛で、服属しないばかりか すでにローマの属州となっていた領域(現フランス領)に侵入移動を始めます。これを阻止すべく、軍を率いて進軍したのが当時ガリア地域の総督を勤めていたカエサルでした。
ヘルウェティイ族は一時カエサル軍を窮地に追い詰めますが、最終的には破れて服属…この遠征の記録はカエサル自身が残した『ガリア戦記』の第1巻冒頭に記されています。
前15年までにアルプス全域がローマの支配下に置かれることになり、チューリッヒ、バーゼル、ローザンヌ、ジュネーヴなど多くの街が建設されていきます。こうしてローマ人が移住して植民市や入植地が造らたアルプス一体はその影響を強く受け、ぶどう酒・穀物・毛織物・陶器などの生産が盛んになり、経済的に繁栄していくこととなったのです。
『ティルゲル』はそのローマ人が持ち込み、伝えた「蜂蜜とチーズと麦粉を材料に作られた平たいパンケーキ」:『プラチェンタ』がルーツと考えられており、 街が歩んだ歴史と時間の経過が刻み込まれたお菓子ともいえそうですね。
ローマ帝国の分裂後 スイス地域は西ローマ帝国の統治下におかれますが、4世紀になるとその統治力が低下し、5世紀には撤退 6世紀にはフランク王国の支配下に入ります。
カール大帝とフランク王国支配
フランク王国のカール大帝(748~814年)は5世紀にローマが崩壊してから初めてローマ教皇からローマ帝国皇帝の冠を授けられ、ヨーロッパを統一した人物 リマト川沿いに建つグロス・ミュンスターはそのカール大帝が築いた教会堂の後に建てられたといわれ、その地下聖堂には1491年頃作られたとされるカール大帝の石像が正義と戦争を象徴する剣城を手に、黄金の冠を頭にして座っています。 この偉大な王とグロス・ミュンスターには、王が深く信仰したキリスト教にまつわる伝説が残されているのです。その伝説とは…
西暦3世紀 地域を支配していたローマ帝国がまだキリスト教を国教とする前のこと キリスト教の信仰を持っていたフェリックスとレグラの2人は、ローマの神々を拝むのを拒んだため、ローマ帝国によって裁判にかけられ、拷問され、ついに現在『ヴァッサーキルヒェ Wasserkirche』(=水の教会)が建てられている場所にて斬首された。すると奇跡が起こった。その場に放置された首の無い死体はやがてむっくりと起き上がり、血まみれとなった自分達の頭を拾い、埋葬されたい場所まで自らの頭を抱えて歩いて行ったのだ。その地こそ現在ヴァッサーキルヒェと道を隔てて向かいにあるグロスミュンスターが建つ場所だと伝えられるが、やがて二人の墓は忘れられていく…
300年の時が過ぎた頃 ドイツで狩りに出たカール大帝が鹿を追いかけて欧州中を走り回り、チューリヒまでやってきた。すると鹿は二人の墓のある所でひざまずいた。カール大帝の馬と猟犬も同様にひざまずいた。カール大帝はそれが神が与えたしるしであるとし、その場に教会を建てるよう命じた…
(左)ハンス・ロイ長老作の祭壇画にある ヴァッサー教会 15世紀後半
当時はリマト川の小島に建てられていた
(右)現代のヴァッサー教会 後方にグロスミュンスターの2本の塔が見える
その後フェリックスとレグラの2人はキリスト教の信仰のために命を落とした殉教者として聖人に列せられています。
伝説はカール大帝の死後に生まれ、ハインリッヒ・ブレンバルト(1508~1516年)により書きとどめられて今に伝わりますが、現在のスイスは大帝が統治した西ヨーロッパ全域に広がる帝国の中心に位置するのですから、カール大帝がこの地を訪れて数々の伝説を残すのは不思議のないこと。
11世紀から12世紀初頭にかけて建てられたグロス・ミュンスターの聖堂内に入ると、ジャコメッティ作のステンドグラスが西日を受けて輝きと鮮やかさを増して神々しく、その手前にはアドベントキャンドルが灯されて温かな光が揺れています。椅子に腰掛けその光景に身を委ねて見入っているとパイプオルガンの演奏が始まり、背後頭上から降り注ぐ力強く荘厳な響きに包まれて…万感込み上げ 涙が溢れたのでした。ー2023年12月17日ー
カール大帝亡き後 孫たちがその領土を3分割して中フランク王国、東フランク王国、西フランク王国を建国 それぞれ現代のイタリア、フランス、ドイツの原形となっていくのです。
リマト川左岸に立つ青緑色の屋根と細身で優美な時計塔をもつフラウ・ミュンスターは、カール大帝の孫にあたる東フランク王国のルートヴィヒ2世(843―876年)が 娘のヒルデガートのために健立した女子修道院の付属教会で、ヨーロッパの貴族階級の女性が神に仕えるベネディクト派修道院として設立されました。修道会には教会横の広場 Munsterhofで開催される市場の運営権や、税金徴収・金貨製造の権利、市長任命権などが与えられたため、市を支配する権力のある教会として11世紀から12世紀にかけて最盛期を迎えます。ちなみにグロスミュンスターの地下聖堂に安置されているカール大帝像はこのフラウ・ミュンスターの方を向いているのだそう… 曽孫娘ゆかりの教会ですものね。乙な計らいでしょうか?
自由都市とギルド
11世紀を前にしてスイス全域は神聖ローマ帝国の支配下に下りますが、チューリッヒは単独での自立を求め、1262年には神聖ローマ帝国の帝国直轄領となり、帝国自由都市としての権利を獲得!
さらに1336年 Rudolf Brun ルドルフ・ブルンはギルド:職業別同業者組合のシステムを組織し、彼は修道院長によって任命されるのではなく、初の民選市長として街の運営の指揮をとることになります。これによりチューリッヒは平民も自治に参加する独立自由都市になったのです。
ルドルフ・ブルンは市長になると、同年フラウ・ミュンスターの修道院に与えられていた特権を剥奪 修道院は衰退してゆきます。そして14世紀 フルドリッヒ・ツヴィングリ Huldrych Zwingli がグロス・ミュンスターを拠点に宗教改革を進める中、1524年フラウ・ミュンスター修道会は解散しています。
ディルジェリーからティルゲルへ
『ティルゲル Tirggel』が歴史の記録に初めて登場するのは1461年に記録された魔女裁判の文書です。それによりますと…容疑者である女性:魔女は重い病を罹っている男の子を治療していました。治療の一環として彼女は、当時あまり知られていなかった『Dirggeli ディルジェリー』と呼ばれるスパイスの入った蜂蜜ビスケットを与えます。
魔女の容疑をかけられた女性は麦粉と蜂蜜を混ぜた生地にスパイスを加えてディルジェリーをつくっています。これは13世紀末ドイツ南部の修道院で麦の粉と蜂蜜にスパイスを加えた生地から作られた『Pheforceltum ペファーツェルテン』 がチューリッヒにも伝わっていたことを示すもので、当時万病に効く薬と考えられていたスパイスを美味しく食べるために工夫されたレシピを女性が知っていて、少年に与えていたのです。しかしながら…
その後 看病のかいなく少年が亡くなると、彼女は魔術を使い、スパイス入り蜂蜜ビスケット「ディルジェリー」を使って少年を殺害したとする容疑をかけられ、処刑されてしまいます。
この裁判は人々の『ディルジェリー』への関心を呼んだ反面、「カルトの集会で食される食べ物である」とのデマも飛び交ったようです。
いっとき話題の主役になったディルジェリーですが、その材料であるスパイスは遠い国からの輸入品で、養蜂も修道院主導でなされることが多く、蜂蜜は贅沢品でしたから『ディルジェリー』は特別感溢れる食品で、広く庶民のお菓子になることはありませんでした。それは魔女裁判と同じ年…クリスマスと新年のために「教会の司教やギルド関係者への贈り物として修道院の釜でディルジェリーが焼かれた。」と記された教会文書からもわかります。
1336年ギルド組織が市政を担う体制が確立されると、議会はギルドメンバーによってのみ構成され、チューリッヒの街は12~13のギルドの代表によって治められることになります。ギルド組織の政治権力が聖職者や貴族をしのぐ状態は当時のヨーロッパの都市の中では異例でしたが、この体制は1798年ナポレオンが市政に介入するまでの460年あまりの間 維持されました。
チューリッヒの旧市街地には往時のままに保たれたギルドハウスがいくつも残っています。活動が旺盛だった頃その財力にものいわせて造られた建物を巡る歴史散策もしてみたいものです…。
(左)フラウミュンスター広場に面して建つギルド会館:ドイツ語でツンフトハウス『ツア・ヴァーグ Zunfthaus zur Waag』は商人ギルドの建物としての歴史は1315年にまで遡ることができるそう。現在の建物は1636年に建てられたものでレストランとして使われている。
(右)マイセンギルド会館 こちらはスイス国立博物館の別館として陶磁器博物館が入っている。
ティルゲルのあゆみ
ギルドが市政や商業の実権を握っていた460年の間『ディルジェリー』のちの『ティルゲル』はパンギルドが認め、権利を与えた職人のみが作ることを許されるスペシャリティーで、すべてのパン屋に生産権が与えられたのは1830年代になってから…
街の歴史をそのまま背負ったかのようなティルゲルですが、そのモチーフも時代を反映して、12~15世紀中世ゴシックの時代には聖書から題材をとり、文盲の民衆に聖書の内容を知らしめるツールとしても使われました。
直径20cmほどの円の中に『ノアの方舟』と『キリスト降誕』のシーンが形どられたティルゲル
その薄さゆえ、後方からの光にシルエットが浮かび上がって美しく幻想的 これはもう芸術品の域で、お菓子であることを忘れそうですね。…セント・ヤコブ財団の製品…
14~16世紀のルネッサンスから16~17世紀のバロック時代は家族や同盟の紋章、ギルドからの発注によるギルドモデルのモチーフ:紋章、建国の英雄ウイリアム・テルなど歴史物語や伝説、おとぎ話の登場人物のモチーフが主流になります。
ここで2023年12月チューリッヒを訪れた私がギルドモチーフ『赤鷲』に2箇所で出会った運命的?な経緯をお話しさせてください。
1336年に設立された大工、石工のギルドが1456年から所有していた「Zunfthaus zur Zimmerleuten ツンフトハウス ツア ツィンマーロイテン」 現在1Fはレストランになっており、こちらでランチをいただきました。チーズフォンデュと仔牛の肉を玉ねぎとマッシュルームと一緒にクリームで煮込んだチューリッヒの郷土料理『ツーヒァーゲシュネッツェルテス Zürcher geschnetzeltes』 付け合わせにはポテト料理、『レーシュティRösti』をオーダー
匂いが籠らないように、フォンデュやラクレット系は屋外のテラス席で…とのことでしたが、12月とはいえ暖かい日だったことに加え、備品の膝掛けの保温効果と美味しいお料理も手伝って、全く問題なし… そしてお食事後嬉しい展開が待っていてくれました。ガイドさんが許可をとってくださり、ツンフトハウス内の見学が実現したのです! 2階から3階へ 時間をかけて見学させていただきました。
ギルドはそれぞれの象徴として紋章を掲げていましたが、チューリッヒの大工ギルドの紋章は「赤鷲」で、その最も古い描写は16世紀まで遡ることができるのだとか。館内には赤鷲の紋章をいくつも見ることができました。羽をいっぱいに広げた赤い鷲…ギルド会員たちは掲げられたこの紋章が誇りであり、これを見ながら一体感を強めていったのでしょうね。
ここで、思いがけない気づきがありました! 写真に収めて持ち帰ったセント・ヤコブ財団が所有する古い木型の中に大工ギルドの発注により作成されたのであろう赤鷲が刻まれたオリジナデザインを見つけたのです!。この木型で焼いたティルゲルはギルドの集まりやお祝い事で会員たちに配られ、また各方面へのお礼の品として、さらに広告や宣伝効果を期待して贈答品としても使われたのでしょう… 中世から続く習慣ですが、現代でもティルゲルをいただいたら、嬉しいですょね。見て美しく、食べることもできる…いつの時代にも古びることのない素敵さは偉大です。
さらに18世紀ロココの時代には職人や伝統衣装、平和な家庭生活が表現され、自然界の植物や動物を描写する工芸的なモチーフも描かれるようになっていきました。そして19世紀を迎える頃には、社会的な出来事を図版にして記録や広告やとしての役割を果たし、産業革命を迎えると、外輪船、飛行機、自動車が頻繁に登場します。20世紀 郵便制度が整うと、ティルゲルの「ポストカード」が考案され、クリスマスシーズンにチューリッヒの景色がレリーフになって浮かぶティルゲルが故郷を離れて暮らす人たちのもとに届けられ、郷愁を誘って人気を博したのです。さらに恋人たちや婚約中のカップルがハートが描かれたティルゲルを贈り合って気持ちを表現したりと、その役割?も変遷してきました。
こちらもヤコブ財団所有の木型 使い込まれて上部が欠けていますね。1区画ごとチューリッヒの風景を切り取ったデザインが彫り込まれて、そのうちの一枚…リトマ川を外輪船が行き、後方にグロスミュンスターの2本の尖塔が見えています。
自由生産の時代を迎えて…
ティルゲル生産権の縛りがなくなった1830年代 チューリッヒの街とその周辺部には新たなティルゲル作りに夢を託し情熱を注ぐ職人たちによって何軒ものティルゲル専門店ができ、全盛期を迎えます。
そんな職人の1人 ダヴィット・シュプリングリも師匠であるパン兼菓子職人ルートヴィヒ・フォーゲルからティルゲルの作り方を学んだのち独立して店を構えるのですが、彼は「長い間デザインを興し、梨の木を使った台木に彫刻を施すモールド作りは職人の基礎訓練の一部であった。」と書き残しています。台木彫りもできてこそ一人前のティルゲル職人 こうしてギルド時代その製法が門外不出だったティルゲルが、広く職人によって継承されていくこととなるのです。
さてこのシュプリングリさん その後チョコレート作りに傾倒し、スイスチョコレート製造のパイオニアの1人として活躍していくこととなり、以来200年 彼の興した店は「チューリッヒで1番有名なチョコレート店」と評される店『Sprüngli』として継承されています。
この時期開店したティルゲル専門店はその後 代を重ね老舗となっていきますが、後継者不足などから時代とともに数が減り、現在個人経営で手づくりを続けるティルゲル専門店は姿を消しています。店を閉じるにあたり、ベーカーたちは3代、4代と受け継いできたレシピと木型を聖ヤコブ財団に寄贈 こうした状況に財団はチューリッヒの食の文化財:ティルゲルのレシピと製法を受け継ぐ決意をし、2018 年ヴィアドゥクト通りにある財団の新しい商業センターにティルゲル ベーカリーをオープンさせます。
ティルゲル製造部門長の Urs Jäckle ウルス ジャックさんがスタッフを率い、自らも職人としてティルゲルを作る現場レポートはこちらから… セント・ヤコブ財団を訪ねて
《追記》ヨーロッパ東西で受け継がれるローマの置き土産
小麦粉にスパイスと蜂蜜をたっぷり加えて生地を作り、美しいレリーフをつけて焼き上げる…ヨーロッパの東の端ベルギーの街ディナン にもそんな伝統菓子『クックドディナン Couque de Dinant 』が継承されています。双方とも、ローマ統治時代の置き土産『蜂蜜ケーキ』を起源とし、2000年の時を経てヨーロッパの東西に継承される食の記憶 誇らしく素敵なお菓子たちです。
(左)Couque de Dinant (右)Züri Tirggel