ペルーニク Perník 1

チェコ共和国のジンジャーブレッドは「ペルニーク」と呼ばれ、季節を問わず人々の生活の中にある身近なお菓子です。そしてそれは日々のおやつ菓子として、小売店やスーパーで気軽に求められるものから、シュガークラフトやアイシングが施され、美しく繊細な工芸作品の域に至るようなもの。さらに時代をこえて継承されている文化的にも貴重なものまでとても多彩

食べ物として愛されてきたのみならず、魔除けや厄除けの願いを託し、愛の告白の必須アイテムにもなり、芳香を漂わせるインテリアとして暮らしを彩ってチェコには奥深く魅力あふれるペルニークワールドが広がっています。

呼称の由来は、地元で採れる麦粉や蜂蜜を合わせて作られていたハニーケーキに、スパイス「胡椒」:「ピペル」が加えられると、「胡椒味の」を表す「ペプルニー」が変化して「ペルニーク」と呼ばれるようになったそう。

ヨーロッパ中央部にあり、四方をドイツ、ポーランド、スロバキア、オーストリアに囲まれ、周辺国の侵略に翻弄され続けた激動の歴史を持つチェコのペルニークは、修道院でも貴族でもなく、職人と貧しい民衆が600年の長きにわたって守り続けた民族の誇りを秘めたお菓子です。

チェコの歴史とペルニーク

10世紀初頭 チェコ人はボヘミア地方にボヘミア王国を興すも、11世紀初頭 王国はポーランドに占領されてしまいます。存亡の危機に直面すると、西の隣国神聖ローマ皇帝(現ドイツ)の力を借りて領土を回復 これを契機にボヘミア王は神聖ローマ皇帝に臣従し、王国は神聖ローマ帝国に加わる道を選択しました。

1347年ボヘミア王になったカレル4世(ドイツ語でカール)は、同年ローマ教皇に推されて神聖ローマ皇帝に選出され、以後32年間 ボヘミアと神聖ローマ帝国の統治にあたりました。

カレル4世がプラハを神聖ローマ帝国の王都と定め、都市計画のもと街を拡充すると、街の人口は4倍にも膨れ上がり、プラハは中・東欧通商網の中核をなして文化的にも繁栄し、南スラヴ諸侯から「黄金のプラハ 」と称えられる絶頂期をむかえます。

ここで、チェコでのペルニーク誕生と生い立ちに目を向けてみましょう。

プラハ教会・聖堂参事会長であったコスマス(1045〜1125)によるチェコ最古の年代記Kosm's chronicle mentionsによるとボヘミアでは「12世紀にはライ麦粉と蜂蜜から甘いペストリーが作られていた」ことが判り、その後そこにスパイスが加わったのはおそらく13世紀 歴史家たちは修道女や修道士がスパイシーで甘いペストリーを楽しんでいたと推測しているものの、実証となると、1335年 トルトノフTrutnovの修道院に残る「ペルニークが奉献された」との記録が最初になります。

チェコへのジンジャーブレッドの伝来ルートは、当時最も一般的だった修道院のネットワークによって、さらに11世紀初頭神聖ローマ帝国の傘下に入った頃から続いた(現ドイツから流入した)東方移民の人々から。そして、カレル4世による政策下での職人誘致へと続きます。

カレル4世は他の都市に先んじてジンジャーブレッドの生産地となっていた神聖ローマ帝国のニュルンベルクから大勢の熟練職人をプラハに誘致 街の活気に誘われてやってきた近隣諸国からの職人も加わり、この時期一気にペルニーク作りの本格的な技とレシピが持ち込まれました。

当時のプラハでは、ペルニークは「ツェレトナーceltle」、その職人は「カレトニチcaletníci」と呼ばれ、職人たちは主に旧市街広場の周辺に住んでおり、現代の旧市街広場から火薬塔まで続く石畳の道 Zelená通りceletna-street(ツェレトナー通り)は 昔この地域でよく焼かれていたパンの種類を意味するチェコ語の“Calty”を起源としており、今にその名を残しています。

ペルニークの美味しさや健康効果が認知され、人気が集まるにつれ、職人たちは大規模な生産に取り組みます。

複雑な製造手順と原材料とりわけ希少で高価なスパイスの取り扱いには専門知識が必要だったため、ペルニーク職人は専門職とみなされ、外国からきた職人たちは1384年にはプラハで協会組織を結成し、1524年には、カレル4世によって開発されたヴルタヴァ川右岸のプラハ新市街 ノヴェー ムニェストNové Město でプルニーク職人達がパンギルドから独立し、ペルニーク独自のギルドが結成されました。

プラハ以外では、1608年 銀の採掘と銀貨鋳造によって繁栄し、プラハに次ぐ第2の都市であったクトナー・ ホラKutná Hora で独立したペルニークギルドが設立されています。他の都市のペルニーク職人は個々で活動し、パン職人、菓子職人、醸造(ビール)職人、製粉屋、蝋職人、石鹸職人の共同ギルドに参加したり、前述の2つの都市やウィーンのペルニーク職人のギルドに参加していました。

フス戦争

14世紀末 カレル4世の死後 カトリック教会は国王の庇護のもと権力と富を握り、その裏では腐敗が進み堕落していました。さらに移り住んだドイツ系住民が、教会と結びついて富と権力を得るようになり、ローマ法王が大金さえ払えば、罪があらがわれるとして売りだした免罪符も戦費調達のためと知れ渡ると、プラハで神学教授を務めていたヤン・フスが、「現在の教会の腐敗の原因は、聖職者の不道徳にある。堕落した教会に従うのをやめ、聖書の言葉に忠実に生きよ!」と諭し、民衆の喝采を浴び、民心を集めました。

これに対し1414年 ドイツで宗教会議が開かれ、教会は彼を異端者とみなし、火炙りの刑に処すると フスは炎の中で「真実は勝つ」と叫びながら炎の中に消えたのです。

この経過にボヘミア市民の教会に対する批判と不満が募ると、ボヘミア王が教会に歩み寄ったため、王に対する批判も増幅。さらに神聖ローマ帝国の支配に対する反発も強まったため、カール4世の息子で、当時神聖ローマ皇帝だったジキスムントは「十字軍」を編成し、出兵。こうして「フス戦争」(14191436年)と呼ばれる戦いが始まりました。市民側は農民も参加して皇帝と対戦 戦闘は17年近く続き、武力による鎮圧を断念した皇帝がフス派の信仰を認めると、ようやく戦火は収まるものの、教会との対立は残り、燻り続け、200年後の30年戦争に続くのでした。

この間 ペルニークは体制側から贅沢品とみなされ、製造中止を迫られる危機を迎えましたが、幸いそれ以後の罰則はなく、困難な時代を生き延び、息を吹き返すことができました。

フス戦争を経て、1526年 ボヘミア王がオスマン帝国との戦争中に死亡すると、姻族関係にあったハプスブルク家が王位を相続 ボヘミア地方はハプスブルク家の支配をうけることとなり、その支配は第一次世界大戦終了まで400年続いたのです。この間ペルニーク作りはギルドおよび職人によってたくましく継承されていきます。

木型と蜜蝋蝋燭

中世期に作られていたジンジャーブレッドは、扁平な円形に成形されて焼かれていたものが、次第に意匠が凝らされ、木片にデザインを描き、それに従って彫りを入れた木型を用意し、そこに麦粉と蜂蜜、スパイスを合わせて捏ね合わせた生地を押し当てることで凹凸のレリーフを美しく浮かび上がらせる手法が確立され、ヨーロッパ中に広がっていました。

ペルニークを作るには、年間を通じて大量の蜂蜜が必要となり、蜂蜜は田舎の養蜂家から蜂の巣ごと購入されました。巣から蜂蜜を抽出して、ペルニークの材料として使い、空になった蜂の巣を精製加工して蜜蝋蝋燭を作り販売する。 さらには木型も自ら彫りを入れて作る職人もおり、ペルニーク職人はこの一連の作業を兼務して行うようになっていました。

 修行とギルド

ペルニーク職人を目指す少年は、先ず親方を見つけ、弟子になるために保証人をたてる必要がありました。ペルニーク職人の修行期間はパン職人よりも長く、弟子たちは一日中、夜から夜まで、14時間から17時間、時には暗闇の中で働くのがあたりまえ。そしてそこでは、生地を捏ねて焼くだけでなく、木片にレリーフを彫る技術も学びました。そうした修行の後、最終試験が設けられ、製造、手順、レシピなどについて厳重な審査が行われたのです。

ハレて試験を突破しても、次なる課題が待ち受けており、ギルドに入るには、当時すべての職業の中で最も高額だった、マイセン グロッシェン 30 コペイカの税金が必要となり、申請者は「善良で誠実な妻を得ていること」の条件に応えるため、結婚していなければならず、地域での永住も条件でした。

ペルニークの進化

ギルドの組織が整えられる中、ペルニークも時代と共に進化します。

ライ麦粉に加えて、白い小麦粉、またはその両方を混合して使用されるようになりましたが、レシピの要であり、門外不出にされていたのはスパイスの配合でした。アニス、カルダモン、コリアンダー、シナモン、ローズマリー、カルダモン、スターアニス、ナツメグ、バニラ、オールスパイス、レモンの皮など さらにより手頃なエルダーフラワーやマザーワートもさまざまな割合で加えられました。こうした遠来のスパイスは香りと味にその特性を発揮し、健康効果に対する期待が売り上げを押し上げ、これを専門とする職人は「アルトピペリスト artopiperistés」と呼ばれていました。

作業は過酷を極めました。

良質のライ麦粉は、蜂蜜やスパイスと混ぜる合わせる前にさらに加熱して乾燥させる必要がありました。なぜなら、「製粉所は湿気が多く、その湿気で生地がうまく機能しなくなる」からです。同時に弟子達は蜂蜜を大釜で煮て糖分を溶かして薄め、蜂の死骸や巣の破片などが含まれる泡を集めて蜂蜜を精製しました。こうしてできる澄んだ蜂蜜は冷めるまで置かれ、その後混ぜられました。 以下MUZEUM TORUNSKIEGO PIERNIKAにて撮影 蜂蜜を煮る職人⇩

麦粉とスパイスに蜂蜜を加え、生地を手で混ぜてこねました。 大量に作る場合は、精製した蜂蜜を木製の桶に流し入れて冷まします。 ぬるくなったら、ライ麦粉、場合によっては小麦粉、スパイスを加え、木製のヘラで混ぜて、均質で滑らか 適度な硬さを見極めて仕上げます。 ペルニークの生地は粘度の強いペーストに仕上げる必要があったため、大変な力作業でした。 通常は 1 週間分用意され、完成した生地は 少なくとも 1 日は寝かせておかれました。 その後、1 日で焼ける分だけを取り分け、手のひらで生地が柔らかくなるまで伸ばしたら、型に押し込んでレリーフを写して焼きました。以下MUZEUM TORUNSKIEGO PIERNIKAにて撮影 生地を捏ねる職人と桶⇩

次第に生地を寝かせる時間が長いほど、食感や風味などの品質が良くなることが判り、生地は樽に入れられ、冷暗所に保管されると、発酵して膨らみ、スパイスの香りを漂わせました。寝かせる期間も製造者それぞれ極秘とされ、数日から数週間 数か月間寒さの中で熟成させることもあったようです。

成形と焼き上げ

生地を捏ねる作業は、時には2種類以上が混ぜ合わされ、生地が固いため、これもまた骨の折れる作業でした。こねた後、塊を指1本分の厚さに伸ばし、長方形に切り分け、木型に押し込んで叩き、固い生地が型にぴったり収まって彫り込まれたレリーフの輪郭がはっきり浮き出るよう気を配りつつ作業します。この時 型に焙煎したエンドウ豆の粉をまぶしておくと、生地が型に張りつかず取り出しやすく、ペルニークは金色に焼き上がりました。

こうして型押しした生地を板の上に叩き出すと、焼く前にレリーフの浮き出た生地に小麦粉をまぶし、水でこすって光沢を出しました。次に、加熱したオーブンに入れてゆっくりと焼きます。焼き上がると溶き卵またはアラビアゴムを表面に伸ばし、もう一度オーブンに入れました。

販売前の仕上げ乾燥

ジンジャーブレッド製造の最終段階は、販売前に行われます。保管中空気中の湿気を吸ってしっとりと柔らかくなったジンジャーブレッドは、オーブンで再び乾燥されます。この手間は、こねて形を整えるよりも簡単でしたが、職人の間では非常に不人気な仕事だったと伝わります。こうして出来上がったぺルニークは光沢があり、美しく細緻なレリーフが浮び上がる芸術性を賞賛される域の品質でした。

スパイスの香りが漂う美しいペルニークは記念品や贈り物に喜ばれ、ハート型は愛の告白やプロポーズの必需品となり、スパイスの香りが魔除けや除菌効果をもつと信じられていたことから、家内安全や病気平癒の願いを託したお守りとしても重用され、戦場へ赴く兵士の無事も託されました。

木型とモチーフ

こうして18世紀末まで、ペルニーク製造においてレリーフを作り出す木型は大変に重要な役割を果たし、木型の彫刻は熟練の技が必要とされたため、ペルニークを高価にする1つの要因にもなっていました。木型の材料には木目が詰まった梨やクルミの木が使われ、後には硬いブナの木からも作られました。緻密な構造の堅い木材は、繊細なモチーフも表現でき、摩耗にも強く、耐久性もありましたが、彫りの作業に手間がかかり、コストがかかったため、柔らかい菩提樹の木linden woodで作られる安価な型も登場しました。

型を彫ることはペルニーク見習い訓練の一課程であり、その修得は職人になるための必須条件でした。訓練期間は非常に長く、厳しいものでしたが、優れた型彫り師になれたのはほんのわずか 腕の良い職人は尊敬され、求められました。そのため、木型彫りを専門とするため家具職人から転職してくる者も現れました。またペルニーク作りに加え、蜜蝋蝋燭作りも手がけていた職人は、木彫りの技術を活かして蝋燭にも彫りを施しました。

腕に自信のある彫り師の中には、鑿(ノミ)を携えて旅をし、行く先々でペルニーク職人の親方の求めに応えて、豊かな想像力と創造力を駆使してその腕を発揮し、また別の街へ移動 芸術的レベルに達した作品を残した者もいたとのことです。

型のデザインは時とともに変化し、流行にも左右されました。中世初期は宗教的なモチーフであり、それらは聖人の像、宗教的なシンボル、旧約聖書と新約聖書のシーンから採ったものでした。次第に世俗的なモチーフが優勢となり、ルネッサンス以降は貴族の生活、騎士、貴婦人、18世紀以降はロココの淑女と騎士、都市に人が集まるにつれて、都会の衣装を着た紳士が登場し、後には狩猟者や道化師などの民俗的なモチーフが登場します。レースのおくるみに包まれた赤ちゃんは長い間人気がありました。さらに動物、馬、鹿、ラクダ、アラブ人に率いられたエキゾチックなキリンが描かれ、魚モチーフも数多く残されています。中世の間は一貫して馬に乗った騎士が、後には軽騎兵や軽騎兵が人気でした。

19 世紀初頭からは、ナポレオンとその兵士、鉄道建設時の機関車、1848年の2月革命後の衛兵など、当時の出来事を彷彿とさせる形が出現しています。

以下は、国立博物館ー民俗博物館に展示されている木型の一部です。

以下の3点「おくるみに包まれた子供」は、新しい命のシンボルとして、子宝に恵まれる願いを込めて、結婚の贈り物や子供の誕生祝いとして長年人気を集めました。