ヨーロッパで初めてうまれた磁器『マイセン』

マイセンの窯印『二本の剣』はザクセン王家の紋章からマイセンミュジアムアプローチにて撮影 時代により少しずつデザインが変わっています。

高度経済成長期 紅茶文化とともに紹介されたヨーロッパ各国メーカーのカップ&ソーサーはどれも美しく垢抜けて、輝いて見えたものです。羨望の眼差しを向けていたマイセン、ウエッジウッド、ロイヤルコペンハーゲン、ヘレンド… その白い肌と洗練されたデザインや絵柄は中国の景徳鎮そして日本の有田焼など東洋の磁器に憧れて、それを模倣しながら出来上がったものでした。今となっては東西それぞれで成熟し、さらなる進化を遂げている磁器たち 本編では中国趣味の美術様式「シノワズリー」が大流行する中 中国の景徳鎮や日本の伊万里、柿右衛門に強い影響を受けて誕生したヨーロッパ初の磁器の歴史を紐解きます。

紅茶文化と東洋磁器

奈良時代 遣唐使として唐に渡った最長や空海がお茶の種や苗を持ち帰り、その飲み方を伝えたことから日本独特のお茶の文化「茶道」が生まれていったように、17世紀初頭イギリスやオランダでアジアとの貿易を目的に設立された東インド会社の船に積まれて中国を発ち、海を渡った紅茶はヨーロッパで人気をはくし、とりわけイギリスで文化として発展していきます。

のちに女王として即位するアン・ステュアート(クイーン・アン在位1702~1714)はたいへん華やかで社交好きそして美食家でした。彼女は紅茶好きでもあり、朝食には必ず紅茶を嗜み、その後も日に何度もお茶を愉しみ、ロンドンのウィンザー城に茶室を作らせて大勢の人々をもてなすお茶会を頻繁に開催したのです。

当時紅茶を淹れるために使われていたのは茶葉と一緒に運ばれた中国茶器でしたが、アン王女は大勢のゲストにサービスする紅茶を一度に淹れられるようにと大きなティーポットを考案 自らデザインして作らせています。洋梨型のそれは銀製で、「クィーンアンスタイル」としていまだに人気をほこる優美なものですが、パーティーでは英国製のシルバーの大きなティーポットで淹れられた紅茶は、中国や日本から運ばれた磁器の湯のみ茶碗に注がれて飲まれました。

「ティーボウル」と呼ばれたそれは、現代の私たちが緑茶を飲むのと同じハンドル(取っ手)のない小さなお茶碗でした。磁器の茶碗は薄く、淹れたての紅茶が熱くて飲みにくいため、ティーボウルには同じ柄を描いた深めのソーサーが組み合わされ、熱い紅茶をソーサーに移して飲む独自のスタイルが工夫されて定着していきます。

宮廷では貴族たちが王女を真似して茶道具を揃え、日に何度も紅茶を飲む習慣が広がります。こうしてイギリスにおける喫茶文化が発展し、カップやソーサーにも注目が集まっていったのですが、当時のヨーロッパには磁器を作り出す技術がなく、生産されるのは陶器のみでしたから、景徳鎮や日本の伊万里、柿右衛門の白く透けるように薄いのに強く、藍や赤の美しい染付の施された『磁器』は「白い黄金」と呼ばれ、各国の王侯貴族の憧れの的となっていたのです。そして茶器にとどまらず、皿や大型の壺などの磁器コレクションを部屋一面に飾る陶器の間をもつことは富や権力の象徴ともなっていました。

そんな中 その磁器を自国の土で作り出そうと野望を抱き、実現させたのは、紅茶文化が花開いたイギリスではなく、現ドイツ東部ザクセン公国の王アウグスト2世でした。

ドイツ ザクセンの歩み

ドイツのみならずヨーロッパの歴史上傑出した人物の一人

フランク王国のカール大帝は現ドイツの西端に位置するアーヘンに都を置き、ほぼヨーロッパ全域を統一 その孫3人が現在のドイツ、フランス、イタリアとなる領土を分割統治することになっていくのですから、まさにヨーロッパの礎を築いた偉大な王です。そのカール大帝が活躍した8世紀 現ドイツ東部のドレスデンを中心に、西のマイセンから東のピルナにかけたエルベ川一帯はザクセン人が暮らしていましたが、ヨーロッパ統一をめざして侵攻したカール大帝との30年にも及ぶ長い戦争の末に敗れてしまいます。

カール大帝はザクセン人のリーダー ウィドゥキントをキリスト教に改宗させてザクセン公に封じます。これがザクセン選帝侯、ザクセン公国、さらに現在のザクセン州の始まりとなりました。

その後アウグスト2世の祖先ヴェッティン家がマイセンの街を首都としてザクセンを統治しますが、15世紀君主の居城としてマイセンの街を見下ろす丘の上に建てられたのがアルブレヒト城(Die Albrechtsburg)です。

アルブレヒト城からエルベ川をのぞむ…

(左)アルブレヒト城(右)「王の広間」には代々の君主の像がおかれています。

ヴェッティン家はザクセン選帝侯の地位を獲得して広大な地域を支配していきますが、同家で内紛が起こり、1485年に領地が分割されたことにより、都がドレスデンに移されます。それによりアルブレヒト城は住む人もなく忘れ去られ、かわってドレスデンが400年続くザクセン公国の都として栄えることになるのです。

1694年 ヴェッティン家のアウグスト強王(在位1694~1733)が23歳にして、ザクセン選帝侯となり、後にアウグスト二世としてポーランド王も兼ねると、ドレスデンは繁栄の時代を迎えます。生涯の大半をドレスデンで過ごしたアウグスト強王は、ヨーロッパ中から有名な建築家を呼びよせ、ドレスデンにツヴィンガー宮殿、フラウエン・キルヒェ(聖母教会)などバロック様式の建物群に囲まれた美しい街を造り上げました。

1945年の空襲で街のほとんどが破壊されたドレスデンですが、粉々になった破片の一つ一つを拾い、組み立てる「世界一困難なパズル」のすえ、街は見事に復興を遂げています。↓(左)ツヴィンガー宮殿 (右)フラウエン・キルヒェ

さらに王は居城内にあった建物を豪奢な展示室に改装させ、王家の財宝や工芸品を集めた博物館として貴族や賓客に公開 貴重な宝石をこれでもかとちりばめた宝飾品や莫大な財宝を象徴するかのような豊富なコレクションの数々はヨーロッパ中に知れ渡り、王家の名前を各地に知らしめることになったのです。

壊滅的な戦争被害の中奇跡的に残ったのが25,000枚ものマイセン磁器のタイルを使い、ザクセン代々の選帝侯や国王35人を描いた102mにわたる壁画「君主の行列」です。壁画が描かれているのは、王侯貴族の前で中世の騎士が馬上試合をしたシュタルホーフ(武芸競技場)の外壁で、その中には、馬にバラの花を踏ませているアウグスト強王の姿もあります。

この壁画に使われた磁器のタイルこそアウグスト二世がヨーロッパで初めて製造を成功させた磁器からなるもので、ツヴィンガー宮殿で時を奏でる純白の磁器の鐘もマイセン製 

ヨーロッパで初めての磁器はアウグスト王の強い思いと、その実現のために生涯を捕らわれの身で磁器の製造開発に携わることになった1人の男によって創り上げられたのでした。

憧れが原動力に…

ザクセン公家の財力と芸術を見極める審美眼に恵まれたアウグスト強王が白い肌の磁器に出会ったのは1696年 隣国プロイセンの国王に招かれて訪れたベルリンの宮殿でした。壁を埋め尽くす東洋の磁器のコレクションを見たアウグスト王はすっかり魅了され、以後高価な東洋磁器を買いあさり、それにも飽き足らず、自分の手で磁器を作り出したいと熱望するようになっていきます。

ベルリン・シャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」↓

そんな王の前に現れたのが19歳の錬金術師ヨハン・フリードリッヒ・ベドガーでした。貨幣鋳造所の職人を父のもつ化学が好きな少年ベドガーは錬金術に夢中になり、人前でその技を披露していたところ話題となり、それが王の耳に届いて宮殿に呼ばれたのです。

王はベドガーに純白の磁器を作り出すことを命じます。情報が漏れることを恐れた王により1701年ベドガーは人と話すことを禁じられ、厳重な見張りがついて城の外に出ることも許されない捕らわれ人として日々磁器の製造に立ち向か生活が始まりました。24の釜が造られ、鉱山資源に恵まれるザクセン各地からあらゆる土が取り寄せられました。ベドガーは粘土や鉱物を組み合わせ、実験を重ね、試行錯誤を続けたすえに高温で焼くと白く変化する土を見つけ出します。それはまさに中国景徳鎮の高嶺(カオリン)山で産出さる鉄分の含有量が低く、粘性や耐火温度が高く、繊細な白い磁器を生み出すのに適している「カオリン」と同質の土でした。

しかしそれだけでは硬い磁器を焼くことはできません。ベドガーはカオリンに土を硬くし、透明感をうむ石灰を混ぜ、その割合を変えて実験を繰り返し、1709年 ついにカオリン粘土7~9に対して雪花石膏(のちに長石と石英)1を調合したものを1400度の高温で焼くという白磁の製法を解明し、白くて硬く半透明な焼き上がりを実現させました。

ヨーロッパ初の磁器の誕生です。この時ベドガー26歳 磁器製作のための捕らわれ人になって7年の歳月が流れていました。

アルブレヒト城壁面に描かれたアウグスト強王とベドガー白磁の製法解明を報告している場面

1710年 アウグスト王は情報の流出を防ぎ、磁器の量産体制を敷くため、ドレスデンから25Km離れたマイセンで崖の上にそびえ建つ中世の要塞アルブレヒト城内に王立マイセン磁器工房を設立し、ヨーロッパ全土に向けて白い磁器の製造開始を宣言 ザクセン王家の紋章「2本の剣」を釜印に定めました。マイセン窯の誕生です。

マイセン磁器工場で焼かれる白磁の焼き物でマイセンは大変潤い、度重なる戦で疲弊した財政は建て直され、その財力でアウグスト強王はドレスデンに華やかな文化を築いていくことができたのです。

その後もベドガーは解放されることなく、磁器工房の監督に任命され、その後王はベドガーに青い染付けの実現を命じます。

ベトガーは引き続き監視のついた実験室に閉じ込められ、外部との接触も禁じられた状態で高温窯や釉薬、絵具などを独自に改良し、マイセンの磁器を「白い黄金」と呼ぶにふさわしい品質にまで高めていきました。そしてさらに中国の磁器に特有の青の再現にも取り組み、さまざまなコバルト鉱石を試して1717年には中国の磁器に似た色を出すことに成功します。

しかし軟禁状態の彼は次第に心身を病み、1719年 37歳の若さで息を引き取ります。マイセンが西洋を代表する名窯として大きな飛躍をとげるのは、ベドガーが亡くなってからでした。

(左)アルブレヒト城内工房に使われた部屋に向かう階段(中央)鉄格子がはめられた工房の窓から見るエルベ川 ベドガーには近くても出かけることは許されない外界でした。(右)お酒におぼれるベドガー後方では窯の火が燃えさかっています。↓

1720年工房にシノワズリーの絵を得意とする絵付師ヨハン・グレゴール・ヘロルトが加わったことでマイセン磁器製作所はさらに名声を高めていきました。

*赤い色の出る釉薬で、シノワズリー模様「柿右衛門写し」が描かれた取っ手のないカップ&ソサー→

1739年 中国のざくろ文様をデザインした絵付けが発表されると、ざくろを知らないドイツの人々がそれをたまねぎと間違えたことから、いつしか「ブルーオニオン」と呼ばれるようになったシリーズです。

器に描かれたすべての模様は東洋哲学に由来する吉祥の意味をもっており、左から『エゾギク』は時間を、『竹』は地位の向上・成長を、『芍薬の花シャクヤク』は気品を、『桃』は永遠不滅・長寿を、

ブルーオニオンの由来ともなった『ざくろ』は、繁栄・多産・肥沃を象徴しています。

マイセンの絵柄が模倣を脱し、ヨーロッパの風景や人物や動物を描いたものが主になっていったのは1740年以降でした。そして1750年にはハンドルのついたティーカップが作られるようになり、絵付けもそれまでの中国風から脱却して、ヨーロッパに咲く花々や紋章・人物などを描いたロココ調のデザイン様式になっていくのです。

ヨーロッパで初めて磁器が誕生してから400年 現在もマイセンの下町には国営マイセン工場が置かれ、磁器の生産が続けられて、ヨーロッパ最高品質の磁器の1つとして高い評価を得ています。