旬の紅茶とブレンドティー
5月初旬 八十八夜をむかえていただく新茶は、新緑の香りと旨味が嬉しい 季節を味わう一服ですね。緑茶同様 季節ごとに個性を発揮する『旬の紅茶』が近年注目を集めています。
300年の歴史をもつブレンドティー
このニューウエイブの紅茶に対し、日本人が親しんできた紅茶は、明治時代にヨーロッパ経由で紹介された『ブレンドティー』で、世界の産地から集めた茶葉を常に同じ味、同じ香り、同じ水色の一杯が淹れられるよう調合して作られたものです。
紅茶産地の多くは、比較的気候変動が少ない亜熱帯から熱帯の低地エリアに広がっているため、一年を通じて茶葉の品質に明瞭な変化はありません。新芽を摘んでから3~4ヶ月するとまた次の新芽が芽吹いて収穫する…そんなサイクルを繰り返し、収穫量も品質も安定しています。とはいえ農産物である茶葉は気候により品質に差が出たり、産地ごとの特性もあります。そんな茶葉を集め、イメージに合わせて味や香りのバランスをとりながら配合する作業が『ブレンド』です。また同じ茶葉を使っても、使う水が硬水か軟水かによって抽出されるお茶の風味や色が大きく変わるため、水質に合わせたブレンドも工夫されてきました。常に安定した品質の紅茶を提供できることが指示されて、こうしたブレンド技術は主にヨ―ロッパとりわけイギリスで発達し、伝統の銘柄が多数あります。
たとえば『イングリッシュブレックファースト』朝食用のブレンドで、寝覚めの一杯にふさわしく濃厚な味わいで、ミルクティー派が大多数のイギリス人の嗜好に合わせてブレンドされます。
中でも「No.14」というだけで通用する人気ブレンドであるハロッズの『イングリッシュブレックファースト』は、その創業者がとりわけ紅茶にこだわって食料雑貨店を開いた創業当初からのレシピを200年受け継ぐ伝統のブレンドです。その通称「NO.14」の由来は、デパートの店舗前を走るバス路線の番号から… ↓
『アフタヌーンティー』は午後のお茶にふさわしく、香り豊かに、スィーツとの相性にも配慮してブレンドされたものが多く、『ロイヤルブレンド』は品良く美しい水色にもこだわってバランスの良いブレンドが目指されます。
創業の歴史に由来してできたブレンドもあります。ハロッズに並ぶロンドンの老舗デパート「フォートナム&メイソン」は、国王アン王女(在位1702~1714)のフットマンだったフォートナム氏が、女王さまが日頃使われる生活用品や、お気に入りの食材などを扱って人気を得たお店です。1907年 創業200周年を祝い、フォートナム&メイソンはアン王女の名を拝した『クィーン・アン』ブレンドを発表し、以来同じレシピで製造を続け、人気を得ています。
紅茶好きだったアン王女は毎朝紅茶を楽しんだため、貴族にもモーニングティーの習慣が広がていきました。
ウインザー城の一室を改装して茶室を造り、大人数を招いてのティーパーティーで使うため、家具やティーポットを考案 自らデザインされた洋梨型のポットや猫足のテーブルや椅子は「クィーン・アン・スタイル」と呼ばれ、今でも人気のデザインです。
こうして各メーカーが銘柄のイメージに合わせて総力を挙げて作り上げ、守り続けるのがブレンドティーです。このブレンドティーが紅茶文化とともに日本に紹介されたこともあり、日本で飲まれる紅茶は圧倒的にブレンドティーだったのです。
旬:クオリティーシーズンのある紅茶
一方産地によっては、気候や地形、季節風などの要因によって、味や香りが最も凝縮する『旬』:『クオリティーシーズン』のある紅茶もあります。近年空輸など輸送時間が大幅に短縮されたことから、遠い産地の旬の紅茶を日本にいながらにして愉しむことができるようになり、新たな紅茶の愉しみ方として暮らしに季節の彩りを添えてくれるようになりました。
個性豊かに季節を運んでくれる『クオリティーシーズン』のある紅茶の産地は、インドのダージリン、アッサム、ニリギリ、そしてスリランカに広がりますが、これら地域の茶園は、イギリス統治時代に原野が開墾され、茶の木が植樹されて開かれた歴史をもっています。それぞれの地域の産地としての成り立ちが、そのまま紅茶の個性にもなっていますので、まずは、イギリスが侵略を進めたインドの地で紅茶産地を作り上げていった過程を追ってみましょう。
400年ほど前 東洋のお茶や陶器、スパイスや絹織物などを求めてやってきたヨーロッパの商人が中国で緑茶、そしてその頃生まれたばかりの烏龍茶や紅茶を買い求めて本国に運ぶと大人気に… とりわけイギリス人は紅茶に夢中になりました。商船の船底いっぱいに茶葉を積み、その中に陶器を潜ませて本国に向かうのですが、風を選んでの帆船の旅は、片道半年以上 へたをすると1年近くもかかるうえ、赤道直下を通る過酷な航海ですから船底の茶葉の品質も劣化をまぬがれません。
東インド会社の商船 インディアマン レパルス(Repulse1820年)↓
それでも運ばれた茶葉は高値で売れ、「堆積させていた落ち葉を乾かして、混入した!」、「長旅の船底で湿気を帯びてしまった茶葉を再度乾燥させて売りさばいた…」などの話がまことしやかに語られるありさま… そこで茶葉の品質を調整するために生まれたのが『調合:ブレンド技術』でした。
19世紀初頭 労働者階級にも喫茶の習慣が浸透し、中国で仕入れる茶葉の量では国内消費に十分応えられなくなっていたイギリスは総力をあげて独自の生産地開発をめざしていました。
アッサム茶樹の誕生
そんな中1823年インドで侵攻を進めていた東インド会社の軍人ブルース兄弟がビルマ(現ミャンマー)との国境に近いアッサムの原野で野生化した茶樹を発見したことは、大きな契機になりました。ブルースはその種や苗を手に入れてアッサムの自宅の庭に植樹し、栽培を試みます。10年余りの試行錯誤の末 茶の木はみごとに成長し、1837年 自ら栽培した茶の葉を製茶してロンドンに送ると翌年オークションに上場され好評を得たのです。
(弟)チャールズ・アレキサンダー・ブルース→
こうしてアッサムの原野で野生化していた茶樹は正式に茶の木『アッサム種』として認められ、野生の象やサイが住むジャングルだったアッサムの地は開墾され、アッサム茶樹が植えられて広大な茶畑が開かれてゆきました。
プランテーション経営の結果その味・香りの良さ、カップの水色の濃さや鮮明さなどの品質が安定しており、ミルクと砂糖を加えて淹れるイングリッシュティーに最もふさわしいとして、さらにインド各地にアッサム種の苗が植えられ、ニルギリやドアーズなどにも茶園がひろがります。
中国種茶樹へのこだわり
ブルースがアッサムで野生化していた茶樹を栽培し、その葉から紅茶を作り出すことを夢見て努力を重ねていた頃の1834年インド総督ウィリアム・ベンティック卿はインドで茶を栽培する計画を打ち出し、茶業委員会を設立します。
委員会のメンバーは中国産の茶樹こそ本来の美味しい良質な紅茶になると考え、中国茶樹に固執しました。特使を派遣し、中国から茶の種や苗木を持ち帰らせてインド各地で4000本以上の苗木の植樹を試みましたが、努力のかいなく中国種の苗はどこに植えても根付かず、枯れてしまいました。唯一の例外はダージリン地方で、ここだけは中国苗が根付き、順調に栽培されるようになったのです。