クックド・ディナン Couque de Dinant 

ディナンはベルギーの南東部、ブリュッセル中央駅からブリュッセル・リュクサンブール駅で乗り換え、電車で約1時間45分程のところにある小さな町です。

そのデイナンの町の名を冠したお菓子が『クックド・ディナン』

小麦粉と蜂蜜を合わせて捏ね、レリーフを掘り込んだ木型に押し込むことでできる凹凸が刻まれた生地を焼いた美しく存在感のあるお菓子で、レリーフのデザインはサン・ニコラなどキリスト教に関係のあるものから、花籠や魚、ウサギ、車やオートバイなどさまざま その由来を紐解くと、古代からの町の歴史にまつわるエピソードが伝わるディナンを代表する伝統菓子です。

ディナン駅を出て右に折れ、道なりに進むと、水をたたえてゆったりと流れるムーズ川と、そこにかかる橋の向こうに高さ100mほどもある断崖が垂直にそびえ立つインパクトのある景色が出迎えてくれます。断崖の稜線にそって伸びる要塞:シタデルはムーズ河を監視するため、1050年に築城されたもの 断崖の前にはほっそり玉ねぎ形の尖塔をもつノートルダム教会が佇んで、街の見どころが全ておさまったパノラマを見ながら街歩きが始まります。

ローマ支配と『プラセンタ』

 古代からこの地域にはケルト人および、ライン川を超えて侵入したゲルマン人らが暮らしていたと考えられていますが、前58年から前51年 ローマの将軍ユリウス・カエサルのガリア遠征により征服されて、『ガリア・ベルギガ』としてローマのガリア属州の一部となります。これを機に多くのローマ人が大土地所有者として移住 この移住者たちは、ガロ・ロマン人(ガリアのローマ人)と呼ばれ、ローマ風の都市を築き、ローマ文化を移植しました。ローマの支配は5世紀頃まで続き、食文化にも大きな影響を残しています。

現地でクックドディナンのルーツとして語られているのがローマ人が好んだお菓子の一つ『プラセンタ』です。 これはチーズと蜂蜜を混ぜた生地と小麦やスペルト小麦を挽いた粉から作られるクレープ状の生地を層状に重ね、焼いてから蜂蜜でコーティングするケーキで、紀元前160年頃にローマの大カトーが『農業論 De Agri Cultura』にレシピを書き残しています。『農業論』には数種類のアレンジレシピも紹介され、さらに時代によっていく種類ものレシピが『プラセンタ』として残されている広義で使われるケーキの名称

この『プラセンタ』がベルギガ地域に伝わり、ローマが撤退した後も作り継がれて『クックドディナン』へとつながっていく。同様にそのレシピはローマ軍の遠征によって帝国領となったヨーロッパ各地でアレンジが加えられ、さまざまなケーキやパイに進化をとげていったのです。

ローマ撤退後

今日「ベネルクス」と呼ばれているオランダ、ベルギー、ルクセンブルクの3国とフランスの一部を含む一帯は、かつてネーデルランド(低地の国々)と呼ばれ、ローマ帝国、フランク王国の支配を経て、10世紀以降はホラント伯爵、ユトレヒト司教、フランドル伯爵、ブラバント公爵、リエージュ司教らがそれぞれの地を支配し、分立して、統一的支配者のいない状態が続いていました。

ディナン リエージュ司教領に

11世紀 神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は市場と裁判権を含むいくつかの特権を、リエージュ司教に授けました。この時から、ディナンはリエージュ司教領内23主要都市の1つとなります。

同じく11世紀ムーズ川の水を利用する真鍮職人達がこの地域に工房を構えたことから真鍮細工が盛んになり、中世後期には水差し、燭台、聖餐式用平皿、祭壇家具などの真鍮製品がヨーロッパ全土に輸出され、街の名をとって鋳造真鍮製品全般が「ディナンドリー dinanderie」と呼ばれるほどの隆盛を極めました。

↑ノートルダム教会に飾られているディナンドリー 

ブルゴーニュ公国の侵攻

14世紀半ば ネーデルランドの有力領主であるフランドル伯爵家とブルゴーニュ公国に縁ができたことから、ブルゴーニュ公国のネーデルランド侵攻が始まります。

1364年 フランス王ジャン2世(在位1350年~1364年)は王位を長男シャルル5世に譲り、末子のフィリップ2世:豪胆公(在位1364年~1404年)にブルゴーニュ公国を封じました。公国は貴族が支配している国を表し、王にあたる人物を「公」と呼ぶことから、フィリップ2世に与えられた領地はブルゴーニュ公国 若い頃から武勇に優れ「豪胆公」の異名で呼ばれたフィリップ2世のもと、ブルゴーニュ公国は独自性の強い地域として発展していきます。

1369年フィリップ2世はフランドルの領主フランドル伯ルイ2世の娘マルグリット・ド・ダンピエール(Marguerite de Dampierre, 1350~1405年):マルグリット3世を迎えて結婚

1384年フラドル伯爵家に男系が絶えると、マルグリットはフランドル伯位を相続し、フィリップ2世はフランドル(ベルギー)とアルトワ伯領(北仏)とブルグント伯領(神聖ローマ帝国)を手中にしたのです。

3代目のフィリップ3世 :善良公の時代には、ホラント伯領、ゼーラント伯領(それぞれ現在のオランダの一部)、ブラバント公領(現在のブリュッセルを含む地域)、ルクセンブルクなども領土に加えて、ブルゴーニュ公国はネーデルラント一帯を領有するまでに勢力を拡大していきます。

1456年フィリップ3世はリエージュ大司教領まで影響力を拡大しようと目論み、ハインスベルクの王子司教ジョンを解任させ、18歳の甥ルイ・ド・ブルボンを後任に据えることで、フィリップは事実上リエージュ統治を手中に納めました。

1466年圧政に苦しんだディナンの人々が蜂起すると、フィリップ善良公は、息子シャルル・ル・テメレール突進公が指揮する軍隊を派遣 ブルゴーニュ軍は町を包囲し、主要産業である真鍮細工職人のギルドを破壊し、町を略奪したあげく、800人の住民をムーズ川に投げ込み、焼き払うという残酷な制裁を行いました。

住民たちが籠城したシタデルには408段の階段またはロープウェイで登ることができます。

(左)シタデルに登る階段、(中)ロープーウエイ、(右)ロープーウエイから見るシタデル

(左)住民達は断崖の上に築かれた城塞に籠城して応戦するものの、城塞は破壊され、住民800人が2人ずつ後ろ手に繋がれてムーズ川に投げ込まれた史実を伝える展示

(右)シタデルの上から見渡すデイナンの街とムーズ河

この歴史に残る惨事がクックド・ディナンの誕生と関連づけられたエピソードが語り継がれています。それは、「窮地に追い込まれ、丘の上の要塞で籠城を続けていた住民は、食糧も尽きた中 唯一残った小麦粉と蜂蜜を混ぜ合わせて生地を作り、ディナンドリーに押してから焼くと、レリーフが美しいビスケットが焼き上がった」というもの。

由来としてより確実なのは、「今に続くクックが 18世紀に登場した」というもの。その正確な状況を追う資料は残っていないものの、クック・ド・ディナンを1774年に商業化し、今日にいたるまで変わらぬレシピを守り続ける老舗があります。2024年7月 創業以来8代続くメゾン・コラール V.Collardの工房で、この道26年 オーナーのMichelさんに話を聞き、作業を見せていただくことができました。穏やかな笑顔 明るいお人柄 太くて長い腕 大きくてふっくらした手 熟練のクッキーエここにあり! 同じ材料を使っても彼が作ればこそ、スペシャルに美味しくなる…手作り菓子を継承する誇りと尊さを実感させていただく取材になりました。

(左)メゾン・コラール V.Collard 店舗兼工房

(右)マスタークッキーエ Michelさん 

第一次世界大戦で壊された後1923年に再建されたアトリエは窓が大きく、明るいワンフロア。壁には何十種類ものブリキの型がかけられ、中央の作業台を取り囲んで、木型や金型の山、焼き上がったクックの入ったバスケット、生地作りのマシンなどが置かれています。

無造作に積まれた木型を見ると、使い込まれ、枠の部分を補強してあるものも どれだけの回数生地を受けとめ、美しいレリーフを提供してきたことかと感慨深い思いが込み上げます。

木型に使われるのは、地元産の緻密で滑らかな材質の梨の木とのこと。

(左上)サン・ニコラ(左下)イースターの羊などキリスト教にまつわるモチーフはそれぞれの祝祭日の時期に大活躍するそう。 その他どのモチーフも手彫りの技が際立って、美しく味わい深いものばかり。

クック・ド・ディナンを有名にしたのは、ブルゴーニュ公侵攻のエピソードとともに、バラエティーに富んだ芸術性豊かなモチーフです。当初はクッキーエ:菓子職人自ら木型を彫っていましたが、家具職人が木彫りに腕を振うようになると、シンプルだった模様がバラエティーに富み、モチーフも意匠をこらしたデザイン世の高いものになっていきました。メゾン・コラールには18世紀の創業当初からのアンティーク木型も含め、200枚以上も保管され、100年使い続けている現役木型もあるとのこと。

Michelさんがお話を交えながら作業を見せてくださいました。

材料も創業当初と変わらずベルギー産の小麦粉と蜂蜜のみ。蜂蜜はブルガリア産やルーマニア産など、最良のものを厳選し、その他一切加えません。

作業開始!

 小麦粉と蜂蜜を混ぜる。その割合は1対1。

 生地を作業台で何回かこねてまとめ、麺棒でのばしたら、木型の模様の輪郭と同じサイズに作られたブリキの枠を使い、生地から型を抜く。

③  生地を木型に軽くはめ込み、指先と手のひらを使って押し付け、レリーフの微妙な高低がはっきりと出るよう、場所により押す力を加減する。

④  木型を立てて台にポンと打ち付け生地を抜き、天板に並べ余分な粉をブラシで払う。

⑤  焼きあがったらオーブンから出し、冷えることで、絶妙な硬さに仕上がって、ご覧の通り…

「ちぎって、キャンディーのように口の中でゆっくり溶かして食べてください。」と教えていただき、手で割ろうとすると、ポキッと折れるのではなく、しんなりと曲がります。さほど甘くないモソッとした生地の小片を口の中で転がしながら待つ時間の長いこと。でも溶け始めた途端、口いっぱいにハチミツの優しい甘さが広がって、その滋味豊かな甘みにハチミツの偉大さを感じます。昔から、赤ちゃんの歯固めに使われたと聞き、なるほど… ディナン住民のファーストステップは、地元の伝統菓子をおしゃぶりすることから始まるのですね。

クック・ド・リンス La Couque de Rins

小型の丸いビスケットとして焼かれることの多い『クック・ド・リンス』は、19世紀 季節労働者として働いていたジャン・フランソワ・リンス Jean François Rinsが、間違って小麦粉の中に砂糖を入れたのが始まりでした。大事な材料を無駄にはできず、シナモンを加えて焼いたところ、柔らかい食感とジンジャーブレッドを彷彿とさせる風味が好評で、新たなレシピとして採用されることに。以来人気のお菓子として作り継がれて、伝統菓子の仲間入りを果たしています。

『クックドディナン』がドイツ西端の街アーヘンに運ばれ、『プリンテン』へと変身をとげるお話は、こちらから…『プリンテン 』