クリスマスの起源と由来 12月25日になったのは…
横浜山手には個性豊かな西洋館が点在して、四季折々素敵な散策を楽しめますが、12月は極め付き!各館ヨーロッパ各国のクリスマスデコレーションが施され、それぞれのお国柄を反映したクリスマスを徒歩のハシゴで堪能できる 加えてどちらの洋館も入館無料のおおらかさなのですから、素敵の極みなのです(笑)
半日かけて7館ゆっくり巡ったら、港の見える丘公園へ…
冬に向かい趣をまして咲き誇るバラたちの姿と香りに酔いしれたら、展望コーナーへ移動
くれなずむ港の水面を眺めながら、もう一度先ほど見た遠い国のクリスマスを想う…
そして帰路…地下鉄の駅に向かう中華街の喧騒で現実に戻るのです。
そうしたクリスマスの異人館めぐりで2015年に出会ったウクライナのクリスマスは、人々が繋いできた心と暮らしが見える素朴で温かいしつらいで印象に残りました。
テーブル中央にスクッと立つのは人形の飾り「ジドゥフ」本来小麦の穂を使って作るところを、日本在住のウクライナ女性が稲の穂を代用して作られた力作で、ジドゥフは「先祖の木」と呼ばれ、先祖を敬うものとして飾られてきたものであるとのご紹介がありました。
ウクライナでは古来冬至の日にはご先祖さまが帰ってくると考えられており、豊かな実りのシンボルである麦の穂で作った「ジドゥフ」を飾り、食卓にはご祖先の分の料理も用意してその日を迎えた…そんな古来の祖霊信仰の風習がクリスマスの祝祭と融合して独自の食卓風景ができあがったのでしょうね。
このようにクリスマスは、キリスト教が普及する以前から個々の民族が継承してきた神話や信仰に基づく風習なども融合した民族色豊かな祝祭といった姿も持っており、それらは大変に興味深いものですが、ここではカトリック教会のクリスマスを中心に歴史を振り返り、その起源と由来に迫ります。
カトリックのキリスト教国において12月25日のクリスマスはイエス・キリストがこの世に降誕されたことを祝う最大の祝祭日の1つで、4週間前からその日に向けて準備をするアドベントの期間が始まります。そうして迎える24日のクリスマスイブ、25日はクリスマス さらにその日から12日後の1月6日に公現祭(エピファニー)が祝われて一連の祝祭が終わりを迎え、この日をもって、クリスマスツリーやリースといった飾りが外される… その一連がクリスマスです。
日本でのクリスマスは、宗教行事としでではなく冬の楽しく華やかなイベントとしてすっかり定着していますね。さらにそれは日本に限らず、宗教の違いを超えて、世界の祭典になった様相です。
これほどクリスマスが世界中に広まって、受け入れられるその訳はなぜなのでしょう…
現代のクリスマスの祝祭のスタイルはキリスト教が広まる以前ヨーロッパの人々が持っていた信仰や、民族神話に基づく風習や生活習慣が、キリスト降誕の祝祭と融合して出来上がってきたものです。
リース、クリスマスツリー、ケーキ、プレゼント、アドベントカレンダーなどクリスマスの風景を彩るものたちも、キリスト教の教義から発生したものではなく、それらは古代から受け継がれた精神文化や冬至祭の風習に基づき、継承されていたものが、キリスト教のベールをまとって、新たな祝祭の表現になっていった経緯をもっています。このようにクリスマスはその根底に人類共通の自然崇拝や祖霊信仰から生まれた冬至の頃の風習を残し、継承しているから、DNAに刻まれた人類の「共通」が共鳴し合あい、世界中の人々に歓迎して受け入れられているのではないでしょうか。
冬至のお祭りとクリスマス
クリスマスは、イエス・キリストがベツレヘムの馬小屋でお生まれになったことを祝う「キリストの降誕祭」であり、イエス・キリストの誕生日ではありません。
これは『クリスマス』の語源が、ラテン語「クリストゥス・ミサ」Christ「キリスト」+mas「礼拝」であり、現代英語ではイエス・キリストの「Christ」と、礼拝・典礼を意味する「mass」を合わせて、『クリスマス』すなわち「イエス・キリストの降誕を祝う礼拝」であることからも計り知ることができるのですが、他のヨーロパ諸国では
フランス語では Noël「ノエル」
イタリア語では Natale「ナターレ」
スペイン語では Navidad「ナビダー」
ドイツ語では Weihnachten「ヴァイナハテン」 などなど
フランス語やイタリア・スペインの言葉では “ 降誕 ” が由来となっており、ドイツ語は “ 聖夜 ” という言葉から。デンマークやスウェーデンなどの北欧圏では冬至祭の呼び名であった Jul「ユール」がそのままクリスマスを意味する言葉として使われていて、なるほどお誕生日ではないのです。
では、肝心のお誕生日は…ということになりますと、
新訳聖書にはイエス・キリストの誕生日に関する記載がないため、事実は不明のまま 今となっては知る由もなく…
先ずはローマ帝国内でのキリスト教の歴史を紐解くことから始めましょう。
ローマ帝国とクリスマス
イエス・キリストの降誕を祝うクリスマスが12月25日に定まっていったのは紀元4世紀のこと
その経過は ローマ帝国内で長く少数派の新興宗教として迫害されていたキリスト教ですが、
313年 コンスタンティヌス帝は〝ミラノの勅令〟によって帝国内のキリスト教の存在を公認します。
325年 カトリック教会の最高会議「ニケア公会議」で12月25日がクリスマスと決定され、
350年 教皇ユリウス一世が、キリストの誕生日を公式に12月25日に定めると布告
392年 ついにテオドシウス帝がキリスト教を国教化するのです。
こうしてローマ帝国内で厳しい迫害と弾圧を受けていたキリスト教が4世紀の100年間に国教となり、「クリスマスは12月25日と」の認識が定着していくこととなりました。
その歴史の中でなぜクリスマスが12月25日に設定されたのか?
その謎の答えは、キリスト教以前のローマの人々の信仰と風習を知ると見えてきます。
『サトゥルナリア祭 Saturnalia』
キリスト教以前の古代ローマ帝国ではローマ神話の神々が信仰を集めており、その頃年間を通じて最も盛大なお祭りの1つが『サトゥルナリア祭 Saturnalia』でした。
古代ローマ時代の暦では12月25日が冬至の日とされ、この日を挟んで17日から23日の7日間 農耕神サトゥルヌスを讃えた祭り「サトゥルナリア Saturnalia」が催されていました。常緑樹を飾り、たくさんの蝋燭を灯し、ご馳走を用意した宴会場が設けられると、人々は正装であるトガは着用せず、非公式でカラフルなディナー用の服を着用 さらに誰もが解放奴隷が被るつばの無いフェルトキャップ:ピレウス帽を被り、大いに飲んで食し、踊って騒ぎ、贈物を交換して楽しんだのです。
(左)トガ、(右)紀元前4世紀 陶器に描かれたピレウス帽の男性
こうした馬鹿騒ぎに加え、その期間限りの社会的役割の入れ替えも特徴でした。お祭りの最中は奴隷とその主人が表面上役割を入れ替えて振舞い、奴隷も宴会に加わり、宴会の給仕を主人が務める 奴隷は主人に口答えしても罰せられることはない と、社会秩序の一時的な逆転が許され、楽しまれました。
その宴席にはデーツやいちじく、蜂蜜を入れた丸いパンが用意され、そら豆が一粒入れられています。その豆が入った一切れが当たった人は、たとえ奴隷であろうとその日はサトゥルナリキウス・プリンケプス(Saturnalicius princeps=無秩序の君主)と呼ばれ、王のように振舞うことが許されました。
さらにこの祭りの間は奴隷であっても公に賭博ができたのです。その無礼講に近い乱痴気騒ぎに手を焼いたなどアウグストゥスやカリグラなど時の権力者たちが会期を縮小しようと試みるとローマ市民は騒乱と大規模な反乱で抵抗したというほどの人気を集めた盛大なイベントでした。
ミトラ教の祭祀「不滅の太陽が生まれる日」
紀元前1世紀ローマ共和制時代の軍人ポンペイウスが小アジアを征服したことを機にミトラ教がローマに伝えられると、しだいに広まって、2世紀後半には皇帝がミトラ教の儀式に参加して信仰を推奨したこともあり、5世紀にかけて隆盛していきました。
太陽神ミトラを崇拝するミトラ教では、冬至は弱まって死んだミトラ神が力を取り戻し再び地上に生まれてくる日とされ、12月25日にはDies Natalis Solis Invicti ソル・インウィクトゥス「不滅の太陽が生まれる日」と呼ばれる祝祭が夜を徹して行われました。
この日はローマ暦の冬至にあたり、古くから古代ローマの神話にちなんだ農耕神サトゥルヌスを讃える祭りサトゥルナリア Saturnaliaが行われていましたが、ミトラ教が優勢となると12月25日は太陽神ミトラの復活を祝うDies Natalis Solis Invicti「不滅の太陽が生まれる日」として祝われるようになっていったのです。
キリスト教の隆盛
そんな中でキリスト教は次第に信者を拡大し勢力を増していきました。
古来ローマ帝国は多神教を基本としていたので、自分たちの神以外を認めようとしない一神教であるキリスト教の教えが受け入れられるわけはなく、イエス・キリストは処刑され、その後弟子や信者たちは厳しい弾圧と迫害をうけたのですが、4世紀に入り、帝国の力が衰え始めると、313年コンスタンティヌス帝は〝ミラノの勅令〟によって、帝国内のキリスト教の存在を公認します。さらにミトラ教の信者であったコンスタンティヌス帝自らがキリスト教に入信 布教に努め、326年にはイエス・キリストが生まれたとされるベツレヘムの岩屋に生誕教会を築いています。
これはキリスト教のもつ教義や組織力に目をつけた皇帝が統一力をとり戻し、国の統治を容易にするためキリスト教を利用しようとの思惑もあったようです。
一神教であるキリスト教は異教の神や文化を認めません。そのため12月25日に伝統的に行われてきた異教の冬至祭を改めるべく336年コンスタンティヌス帝は12月25日を『クリスマス』=キリスト教における公式な祝祭日として制定 伝統的に行われてきた冬至祭のキリスト教化を行いました。
キリスト教においてイエス・キリストは全人類をその罪から救うために降誕された救世主であると考えられています。
それに対して冬至は一年で最も日照時間が短く暗い日ですが、この日を境に太陽が活力を取り戻し、勢いを増していく希望に満ちた日でもあります。この冬至の日を起点とした明るさと希望の再生現象が人の世に光をもたらすイエス・キリストの降誕と重ねられ、「冬至の日12月25日は救世主の降誕を祝う日『クリスマス』にふさわしい日である。」と説くことで、キリスト教はローマで土着の信仰となっていたミトラ教徒との対立や摩擦を極力さけながら古来の冬至祭「不滅の太陽が生まれる日」とクリスマスを統合し、置き換えていったと考えられます。
古代北欧の冬至祭とキリスト教化
北欧で暮らした古代ゲルマンの人々はこの日を境に太陽が力を回復させていく冬至の日から新年が始まると考え、ユール(yule)と呼ばれるお祭りをしていました。
冬至をはさんで親族や集落の人々が集まり丸太を積み上げ火を焚いて炎を囲みながら太陽の再生を祝いました。ゲルマン神話の神オーディンやフレイに雄豚やビール、蜂蜜酒、蜂蜜ケーキを捧げ、前年の収穫と一年の無事を感謝し、来る年の豊穣と家内安全を願う… その宴席には亡くなった人の霊も参加すると信じられていました。
厳しい冬を超える前冬至の日に屠殺した牛などの肉を食べ、夏~秋にかけて仕込んでいたお酒を飲むという風習はヨーロッパ中に存在し、ペルシア圏でも「ヤルダー」と呼ばれる冬至を祝う盛大なお祭りが続いてきました。
4世紀頃のローマ帝国は最盛期の勢力を失い、分裂へと向かいましたが、キリスト教は力を増し、布教を進めて信者を獲得すると、ヨーロッパ各地の冬至祭はクリスマスと統合・置き換えられていきました。
こうして冬至と古来の風習が統合されてキリストの降誕日が定められたわけですが、キリスト教会はさらに新約聖書に従い「救世主」としてのキリストが出現したことを世に示すため12日後に『公現祭 エピファニー 』を祝うようになり、一連のクリスマス行事が出来上がっていくのです。
クリスマスはキリスト教の復活祭に次ぐ大きなイベントとなり、9世紀頃には各地でクリスマスのミサなども行なわれるようになりますが、聖金曜日&復活祭の方が重要視される時代がその後も長く続いたのでした。
「クリスマスイブ」は12月24日の日没から深夜まで
「イブ」とは英語の「evening:夜」と同じ意味の古語「even」であり、クリスマスイブとは「クリスマスの前夜」ではなく「クリスマスの夜」を指しています。
これには古代ローマの暦やキリスト教の前身にあたるユダヤ教の暦が関わっており、当時1日は日没に始まり、日没に終わるとされていたため、12月24日の日没から25日の日没までが「クリスマス」
そこで、クリスマスイブは、すでにクリスマスに含まれている24日の日没から深夜までということになります。
現代では、教会や宗派によって解釈はさまざま。一般の暦にならい、25日に日付が変わると「クリスマス」とみなす宗派もあり、どの宗派もそれぞれの教えに則りクリスマスの伝統を守り続けているようです。