クリスマスツリーの起源と由来
緑の小枝飾り『マイエ』
ヨーロッパ北部地域に暮らしていた古代ゲルマンの人々は、自然信仰にもとづき、樫の木をはじめとする常緑の巨木を崇め、常緑の葉を永遠の命の象徴として、森から緑の小枝を切り出して家内に飾りました。健康や魔除け、豊穣の願いを託したのです。オーストリアの一部やアルザス地方ではモミの木もしくはドイツトウヒを用い、ドイツ東部ではセイヨウイチイ、ドイツ南西部のシュバーベンやファルツではツゲ、スイスではセイヨウヒイラギが用いられました。
この緑の小枝飾りはドイツでは「マイエ」とか、「マイ」と呼ばれ、その語源はローマ神話の春を司る豊穣の女神マイヤMaiaからといわれます。とはいえ、緑の小枝飾り「マイエ 」は春に限らず年間を通して様々な機会に飾られました。
同じく古代ローマ帝国内で広く信奉されていたミトラ教では12月25日は太陽神ミトラの誕生日であり冬至祭の主日であるとされ、常緑樹を崇拝する思想から、新年を迎えるにあたり、家の周辺を常緑樹の葉で飾り、木の枝には太陽を象徴する赤い実をつけて、悪霊祓いの儀式を行ったと伝わります。そうした古代の信仰に基づく習慣は、キリスト教化が進む中でも継承され、途絶えることなく続いていきます。
冬のものは『冬のマイエ』または『クリスマスのマイエ』と呼ばれ、これには冬でも緑を残す針葉樹 とくに モミやトウヒが用いられました。常緑の枝を家内に持ち込み、厳寒期でも枯れない緑に、みなぎる生命力を感じ、来る年の家内安全や魔除け、健康や豊作、子孫繁栄の願いを託して家の壁や柱に差して飾られました。
『5月のマイエ』は新緑の美しい森に入り、ブナやカンバの枝を取ってきて、家に差したり、身につけました。…新緑の自然を楽しみ、樹木から力をもらうために、森へでかけて枝を取ってくるのです。5月祭でメイポール(マイバウム、5月の木)ダンスも楽しまれます。
*右の画像は、5月6日 プラハ郊外を走行中のバスの車窓から撮影したメイポールです。
『収穫のマイエ』は晩秋1年の実りを感謝し、来年の豊穣を願うマイエです。収穫した麦を荷車に積んで納屋へ向かう時、その荷車を飾ったり、刈り取った最後の麦束につけたりするもの 19世紀のアルザスに残る記録によると、みずみずしい葉の繁ったモミやマツ、白樺の小枝に色リボンや木の実、花、りんごや洋梨、お菓子、ブレッツェル、ソーセージやハム、卵、ぶどう等を飾り付け、そのマイエは納屋の切り妻に1年間かけたままにされました。
『棟上げ式のマイエ』は「棟上げ式の枝」と呼ばれ、枝に色リボンを飾ったり、枝を王冠やリースに形創たりするヴァリエーションも見られ、屋根の最上部につけられました。 日本の棟上げ式に通じる現代まで続く習慣です。
『結婚式のマイエ』は、ローズマリーなど常緑樹の枝を輪にしてリボンなどで飾りをつけたものが多く、結婚式前に準備し、用が済んだら庭に植えておく。根付いて成長すれば一家の繁栄をしめすと喜ばれたといいます。
キリスト教化が進められる中、新年にマイエを家に飾る習慣は迷信に振り回される愚行だと非難され、6世紀後半から繰り返し禁じられるにもかかわらず、人々は頑固なまでにマイエを飾り続けました。
1494年 アルザスの法律家セバスチャン・ブラントによって書かれた非キリスト教的な習慣を槍玉に挙げた風刺詩の中に「新年になにか新しいものを持ち、そして歌を歌いに行かないと、緑のモミの小枝を家に挿さないと、その年を生き抜けないと思っている…。」とあるように、人々が一年の幸先に不可欠だと信じている行いの中に、マイエ飾りも根強く存続していたことが判ります。
人々のマイエ乱獲は森林の保護にも関わるとして、行政も対策を講じています。
アルザス地方中部の町セレスタの人文主義図書館Bibliothèque Humanisteに所蔵される町の会計簿の1521年12月21日の欄に「クリスマス装飾用のモミの木伐採を監視する森林監視員に4シリング支払った」との記述が見られ、この頃市民がマイエのために勝手に森の木を伐らないよう森番をおいていたことがわかります。
*セレスタ市内中心部にある人文主義図書館 Bibliothèque Humaniste 「ユマニスト図書館」は、1452年からの歴史をもつ由緒ある古文書館 12月には、フランス最古のクリスマスツリーの記述が一般公開されます。
シュレットシュタットでも1436年から同様の目的で森番をおいていましたが、1555年にはいよいよ「罰則をもって、クリスマスのマイエを伐るべからず」となるのでが、その翌年別の町では古い由来に基づき、一定量のマイエを伐ることが許され、1561年には1人1本まで許可し、長さは8シューエ(約2.4m)までと改正されています。このように、人々はなんといわれようとマイエをやめるどころか、行政を妥協させ、さらにその枝に飾り物をつけることを思いつくのです。
クリスマスツリーの登場
飾り付けされたツリーの最初の記録は、1419年のクリスマスに「フライブルクの聖霊救貧院(Heilig-Geist-Spital)の前に立てられた」というもの。パン職人の信心会がリンゴ、洋梨、ホスチア、レープクーヘン、彩色したナッツ、金紙などを木に飾り、1月6日の三賢王の日:エピファニーを迎えると、子供たちが木をゆすって飾り物を落として食べることが許されました。フライブルクはシュヴァルツヴァルト:黒い森に隣接する街 この時使われたのは近くの森にあるモミの木だったことでしょう。
1500年代初頭から ライン川上流のフライブルクあたりから首都スラスブールにかけてのアルザス一帯で、伝統のモミの小枝飾りにクリスマス期 飾り物を吊るすようになっていった記録が多く残るようになります。
1597年アルザス テュルクハイムのギルド会館の酒場マスターが残した請求書にある 「ホスチア、りんご、色紙、糸の購入費」は、クリスマスのマイエを飾ったものと推測され、モミの小枝飾りに、りんごとホスチア、色紙を吊るしたものでした。*ホスチアは小麦粉を水で溶いた生地を焼いて作られる円形で色白の薄いパンで、別名オブラーテンOblatenとも呼ばれるもの。ツリーに飾られるのは、教会のミサで用いられる聖別されたホスチアではありません。
1600年 シュレットシュタットの会員制酒場のマスターの日誌には、「クリスマスの夜 ホールに森番が持ってきたモミの木を立て、ホスチアとリンゴで飾った。クリスマスの木はそのまま置かれ、三賢王の日にそら豆の王様が選ばれる祭りと大宴会が催された後、子供達が来ることが許され、冷たい焼肉とケーキが振る舞われ、続いて子らはマイエをゆすることを許された。」とあり、ここでの「マイエをゆする」とは、モミの木をゆすって、飾られていたホスチアとリンゴを落として食べることを許されたのであり、17世紀初頭「クリスマスのマイエ」は「クリスマスの木ツリー」と呼ばれて、ギルドの酒場から始まり、飾り物をしてクリスマス期間を過ごした後、ツリーを飾ったホスチアとりんごは子供達が食べたことがわかります。
その後も、1604年アルザス ストラスブールの家庭で、「モミの木を立て、リンゴ、ホスチア、砂糖菓子、金紙、色紙で作ったバラなどを飾った」とする記録
1605年フライブルクに残る年代記に「ナッツ、レープクーヘン、様々な色の紙で作ったバラ、リンゴ、小さくて薄い菓子、金紙、砂糖菓子…を飾った」とする記録
こうした記録が数多く残ることから、クリスマスのマイエにものを飾る習慣は1400年代初頭フライブルクで始まり、ライン河に沿ってアルザス地方一帯に広まったと推定されます。
1500年代後半になるとアルザス以外の各地でも記録が残されるようになり、
1570年 ブレーメンに残る『ギルド年代記』には、「小さなモミの木にリンゴ、木の実、デーツ、プレッツエル、紙の花を飾り、ギルド館に立て、組合員の子供達が木をゆすって、飾り物を落とすことが許された。」
同1570年スイスのベルンでもモミの木を飾り、子供達がゆすって飾りを取ったことが「デーツの木ゆすり」としてギルドの記録に見ることができます。
こうしてクリスマスツリーが広く伝播していく中、1640年代 アルザス地方の都市 ストラスブール出身の神学者ヨハン・コンラート・ダンハウザーは、この現象を「神の言葉よりも、モミの木に人形や砂糖菓子をつるし、あげくにそれを(子供達に)取らせることに人々が傾倒しているのは嘆かわしい習慣」と批判することしきりですが、くしくもこの記述はこの時代のツリーと人々のあり様を伝える証言ともなっています。
フライブルクの市立古文書館に保存されているフライブルク聖霊病院の1543年から1773年までの請求書明細からクリスマスツリーに吊るしていたものが分かります。
購入品リストには 毎年ナッツ、りんご、洋ナシ、レープクーヘン、オブラーテン(ホスチア)、色薄紙、金箔が見られ、興味深いのは明細が明記され始める1602年から毎年登場するオブラーテンが、1674年以降はレーブクーヘンに替わっていること。おそらくそれはシュペクラティウスのような、木型で形をとった、薄いレーブクーヘンであったことでしょう。そしてナッツ、りんご、洋ナシといった木の実には彩色絵が描かれていました。木の実の彩色絵付けは絵描のヘルマンに、レープクーヘンは農婦マリア・クララに作業費用を支払っています。
こうしてみると、初期のクリスマス・ツリーは食べられるものに加え、色薄紙で作られたバラの花を飾ってそれを賛美すること そしてそれ以上に、木を「ゆすって」枝につるされた「実:りんごやレープクーヘンなどの食品」を食べることに意味があったことが判ります。
ルターと蝋燭飾り
ツリーにローソクを灯すことを思いついたのは、マルティン・ルターだといわれています。あるクリスマスの夜 ミサを終えて家路を急ぐルターは森の中でモミの木の枝間から無数の星がまばゆく輝く情景を見て感激し、それを子供たちのために再現しようと、家に木の枝を持ち込んで、ロウソクをくくりつけ、火を灯したのです。この話は後世の創作とする説もあり、ルターの時代蜜蝋蝋燭は大変高価な貴重品でしたから、これがすぐに一般化していったわけではありません。
1517年ルターは宗教改革を提唱し、聖人などの偶像崇拝を否定し、モミの木をプロテスタントのクリスマスのシンボルとしました。クリスマスには子供たちを集めてモミの木を囲み、左右対称で三角形の樹形の頂点を父なる神、底辺の両端を子供と精霊に例えてキリスト教の三位一体を教え、キャロルを歌って主の生誕を祝ったと伝わります。
クリスマスツリーを屋内に飾られるにあたり、当初は立てられたでのではなく、天井から吊るされたとの記述が多く残ります。
モミ、トウヒ、マツの木が、リビングルームの天井の梁から逆さまに吊るされた。それはおそらく実用的な理由からで、この方法だと木はスペースをとらず、倒れることもなかったから。蜜蝋蝋燭やクルミの殻に入れられた油を燃やすランプが、蝋で枝に装着さるようになると、木を倒さないことは重要だったのです。火を使うロウソクの飾りは、火災の原因となることもしばしばで、ツリーの傍には水を張ったバケツがいくつもおかれ、ひとたびツリーに火が燃え移った場合に備えられていました。
*セレスタのサン・ジョルジョ教会では、毎年クリスマスの時期に、ツリー装飾の変遷に関する資料が展示されます。
1800年代半ば ドイツやフランスの宮廷や上流階級に普及していくと、ツリーはテーブルの上に置いて飾られ、次第に中産階級にも広まっていきました。この頃ツリーは砂をつめた桶や木箱に入れるか、板に釘で打ち付けるかの方法で支えられていましたが、1800年代後半に鉄製のツリースタンドが登場すると、ツリーは次第に床に降りていきました。
常緑の小枝マイエを家の中に飾る習慣を、異教の悪しき慣習として非難し、17世紀半ばにクリスマスツリーに夢中になる人々を嘆いていたカトリック教会関係者ですが、クリスマスツリーのイメージがモミの木に絞られると、三位一体のイメージが重ねられ、モミの木のクリスマスツリーにキリスト教的な意味合いを見出していくようになりました。
1738年 ルイ15世の王妃マリーによって、ヴェルサイユ宮殿にはじめてクリスマスツリーが飾られます。マリー妃はポーランド元国王スタニスワフ1世の娘で幼少のころに一家でフランスのアルザス地方に亡命し、22歳でフランス王家に嫁ぐまでそこで暮らしました。その間に親しんだツリーを宮殿にも取り入れたのです。
アメリカ合衆国ではドイツ系移民によって1746年に最初のツリーが飾られています。当初建国に関わったイギリス系清教徒から、異教の文化と断じられて衝突もありましたが、次第に浸透していきました。
1800年代になると、クリスマスツリーはドイツ全域に広がり、1820年から30年頃にはスイス、オーストリアを含むドイツ語圏に定着
1840年 イギリスのヴィクトリア女王はザクセン=コーブルク=ゴータ公国(現ドイツ中部にあった領邦国家)の公子アルバートと結婚します。ヴィクトリアが求愛しての結婚でした。 夫婦仲はたいへんよく、4男5女を授かり、王室ファミリーの生活ぶりは国民の憧れであり、模範となっていきます。
1841年アルバートは幼い頃ドイツで親しんだクリスマススタイルをイギリス王室にも積極的に取り入れて、ウィンザー城の広間に故国から取り寄せた大きなもみの木を持ち込み、クリスマスツリーを飾りました。
1848年「イラストレイテッド・ロンドン・ニュース The Illustrated London News」
が、クリスマス・ツリーを囲むヴィクトリア女王一家の様子を報じると、ロイヤル・ファミリーのライフスタイルに憧れを抱いていた中産階級の人々が、こぞってクリスマス・ツリーの風習を取り入れていきました。こうして、クリスマス・ツリーは幸せな家庭の象徴となり、クリスマスの文化の1つとなって、世界に広まっていくことになるのです。
マイエから世界のクリスマスツリーへ
ゲルマン人は常緑の小枝:マイエを家に飾りました。
600年ほど前 クリスマスに救済院で木に食べものを吊して飾り、貧しい人々に分け与えられた記録が残り、マイエに飾り物を吊るす発想が生まれたことが分かります。
1600年に入ると、アルザスのギルドのクリスマス祝いの一環として、もみの木が食べ物と色紙で飾られ、その後ドイツの諸都市およびスイス北部地域に普及 やがてクリスマスツリーはヨーロッパ各地に広がり、19世紀初頭にはドイツ移民によって新大陸・アメリカにもたらされました。
その間従来の飾り物…絵付けを施されることもあったりんご、金銀に塗られた木の実、干したハートなど様々な形で抜かれたクッキーや凸凹レリーフが美しいレープクーヘンなどに加えて蝋燭が灯され、綿の雪も添えられて姿を変えてゆきます。
火災の発生と隣り合わせだった蝋燭飾りは、アメリカの発明家トーマス・エジソンの電球の発明によって、一気に安全性を手に入れます。この発明によって家庭での電気利用が可能になり、1895年エジソンのビジネスパートナーであるエドワード・ジョンソンが電飾を考案したことで安全に輝くクリスマスツリーが実現したのです。
現在に見られるようなデコレーション主体になっていくのは第一次世界大戦の前後から。
古代から家に飾られた常緑の小枝はクリスマスツリーに姿を変え、食べ物飾りを吊るす姿となり、役目を終えた食べ物は、子供たちのお口の中へ… アンデルセンの『もみの木』は、ツリーの周りに集まって、目を輝かせ、歓声を上げる子ども達を想い描かせてくれます。