Pain d'épices  パン・デピス  ピティヴィエ

パリから南へ電車とバスを乗り継いでおよそ3時間 ジャンヌ・ダルクの活躍で知られるオルレアンと同じ Loiret 県に属する村ピティヴィエ Pithiviers この村で10世紀末 アルメニアの司教 聖グレゴリウスが伝えたスパイス蜂蜜ケーキが作り継がれています。

ロシアの南 カスピ海と黒海に挟まれた国アルメニアは、アルメニア使徒教会を国教としていたためギリシャ正教の隣国東ローマ帝国やペルシアから度重なる干渉を受けていました。

10 世紀半ば アルメニアが東ローマ帝国の皇帝バシレイオス2世に対して反乱を起すと、聖グレゴリウスはペルシャ軍によって教区ニコポリスNicopolis(現在トルコ北東部のコユルヒサル市)を追われ、従者アロイーズAloyseを伴って西へ向かいました。

中央ヨーロッパを横断し北イタリアを経て、フランスのオルレアネ地方の町ピティヴィエPithiviersに辿り着くと、ピティヴィエのサン・ジョルジュ教会の騎士アルルフロワArlefroyは彼を歓迎し、グレゴリウスの要望に応じて、ボンダロイのサン・マルタン教会Saint-Martin-le-Seul で隠遁生活を送る権利を与えました。

9世紀に建てられ、放棄されていたサン・マルタン教会は、その時からアルメニアの修道院となり、彼は教会から歩いて数分のところにあるエソンヌ渓谷la vallée de l’Essonne àの洞窟に隠遁して7年間 苦行を行い、野生植物の根と蜂蜜を糧として、質素な生活を送りました。

次第に聖グレゴリウスの元に人々が集うようになると、聖グレゴリウスは人々の心を救い、病を癒し、捧げられた供物を貧しい人々に分け与えたと伝わります。そして彼は日曜日に集まってくる司祭やキリスト教徒に祖国アルメニアのレシピで自ら作ったお菓子を振る舞ったのです。それはライ麦粉、蜂蜜、スパイスから作られるケーキ菓子で、ミシーMicyのサン・メスマン修道院Abbaye Saint-Mesminに10世紀の写本が保管され、その記憶を残しています。

999年聖グレゴリウスが亡くなると、サン・マルタン・ル・スル教会に埋葬され、生前彼がおこした奇跡の数々と、その人生はピティヴィエの町の聖典に記録され、ピティヴィエ教会は彼を守護聖人としています。

聖グレゴリウスの残した「スパイス蜂蜜ケーキ」は語り継がれ、没後1000年たった今でも 地域のパン職人によって守られています。フランス中部 パリの南南西に位置するピティヴィエは、ボースとガティネの境界、ガリア街道とローマ街道の交差する交易で栄えた街です。そこは豊かな穀物地帯であるボース平野と、良質な蜂蜜の産地として名高いガティも控えており、聖グレゴリウスの「スパイス蜂蜜ケーキ」は材料にも恵まれました。

現在 聖グレゴリウスが伝えたライ麦粉、蜂蜜、スパイスから作られケーキは、小麦粉、酵母、蜂蜜(場合によっては上白糖を加える)、牛乳、スパイス(シナモン)、場合によっては砂糖漬けの果物を材料に、すべてを混ぜ合わせ、こねてから、オーブンで焼かれます。そしてそれは『pain d'épices de Saint-Grégoire de Nicopolis ニコポリスの聖グレゴリウスのパンデピス』と呼ばれています。

ピティヴィエでは聖グレゴリウスのパンデピスの伝統を守り、継承することを目的とした『ニコポリスの聖グレゴリウスのジンジャーブレッド同胞団 Confrérie du pain d’épices de Saint Grégoire de Nicopolis ASSOCIATIONS,』が活動を続けており、2024年3月2日にピティヴィエ村役場で創立20周年を祝っています。