Pain d'épices  パン・デピス … ランス       

フランスで「スパイス蜂蜜パン」は『パン・デピス』と呼ばれています。…フランス語でスパイスを「Épice:エピス」ということからの名称で、地域の歴史や文化を背景に、シャンパーニュ地方のランス、ブルゴーニュ地方のディジョン、アルザス地方そして北フランスでも盛んに作られてきました。

パンデピスの定義として最も古いものは、1694年刊行の『Dictionnaire de l'Académie française アカデミー・フランセーズ辞典』の初版本で見ることができ、パンデピスは「ライ麦粉と蜂蜜と香辛料で作られるケーキの一種」とされています。これはシャンパーニュのランスReimsで作られる『パン・デピス』を前提にしているといわれ、当時ランスのパンデピスはそれほど名声を得、隆盛を極めていたのです。

シャンパーニュ

シャンパーニュ地方はイタリアとフランドル、ドイツとスペインを結ぶ要所に位置し、12~13世紀にはシャンパーニュ伯支配のもと、各都市で大市が開催され、毛皮や皮革、ワインなど東西南北の商品が取引されて栄えた歴史があります。なだらかな丘陵地は大穀倉地帯で、良質な蜂蜜に恵まれたこともあって、ランスの町では13世紀初頭からパン・デピスの生産が盛んになり、革命までフランス一の生産を誇っていました。

ランス Reims

フランス王家は始祖クローヴィスが496年にランスのノートルダム大聖堂で洗礼を受けてカトリックに改宗して以来、ランスのノートルダム大聖堂で戴冠の秘蹟を授ける「聖別式」を行うことが王となる必須の儀式とされていました。正式には「聖別式」と呼ばれる戴冠の儀式は、塗油を行うことで神の超人的な力を国王に与えるという意味があると考えられたため、ランスで戴冠式を行わなければ、正式なフランス国王として認められないほどの権威を有していたのです。

パリ東駅から東北東へTGVで45分 歴代国王の聖別戴冠式が行われた『ノートルダム大聖堂』が所在するランスは「戴冠の都市(la cité des sacres)」または「王たちの都市(la cité des rois)」とも呼ばれました。

そんなランスで隆盛を極めたパン・デピスにはフランス王家にまつわるエピソードが多いのもうなずけるところです。

13世紀末 神聖ローマ帝国(現ドイツ)南部バイエルン州の修道院で、麦粉と蜂蜜を練って焼いていたパンの生地にスパイスが加えられ、『ペファークーヘン』が誕生しました。…それは次第に周辺地域に伝わり、ライン川沿いに進んでアルザス地方、さらにフランス王国のランスReimsやパリParisにも伝播していくのですが、ランスでは1420年頃には、パティシエによってパン・デピスが商品化されていたことがわかっています。

100年戦争最中のフランス

1422年シャルル7世は父シャルル6世の急死をうけて、フランス王国の王位を継承します。

当時のフランスはランスを含む北部はすでにイングランドの手に落ちており、1420年イギリス軍に連敗を喫してパリを占拠され、同年イングランド王へエンリ6世がパリのノートルダム大聖堂で戴冠式を挙行しフランス王に即位していました。

王太子シャルルはパリを追われ、戴冠式を行うこともできず、ロワール地方シノンのロッシュ城で失意の日々を送っていたのですが、ここでオルレアンが陥落してしまえば南西部も一挙に占領され、フランス全土がイングランドに渡るであろうという危機的な状況中、1429年17歳のジャンヌ・ダルクがフランスを救うべく立ち上がります。まずシノンに駆けつけ、王太子シャルルと謁見 その後ジャンヌに率いられた軍隊は、フランス最後の砦となっていたオルレアンに進軍し、7ヶ月もの間イギリス軍に包囲されていた町を、わずか1週間で開放してしまう。ここからフランスの逆転劇が開始され、同年中にフランス北部の多くが解放され、ジャンヌはシノンのロッシュ城で、王太子シャルルに戴冠式を行うよう進言します。

勢いづいたジャンヌ軍は、敵軍を次々と蹴散らしながら、ランスに向かい、1429年7月17日 ジャンヌに伴われた王太子シャルルはランスのノートルダム大聖堂で戴冠 正式なフランス王シャルル7世として即位しました。伝統に則ってランスのノートル=ダム大聖堂でシャルル皇太子の聖別式が行われたことは、イングランド王とフランス王を兼ねるヘンリー6世の王位継承を否定するものであり、シャルル7世こそ唯一のフランス王であることを印象付けたのです。

フランス王となったシャルル7世はイギリスとの講和の道を模索し始め、あくまでも戦いの続行を望むジャンヌからは心が離れてゆくことに。ジャンヌは援軍を得られぬままパリ奪還を試みるも失敗 1430年コンピエーニュの戦いでイギリスと手を組んでいたブルゴーニュ公国軍に捕えられて、イギリスの手に渡されてしまいます。その後ジャンヌはイギリス支配下のルーアンで宗教裁判にかけられ、当時最も重い刑罰であった火刑を宣告され、非業の最期を遂げています。

(左)ランス『聖ノートルダム大聖堂』『ジャンヌ・ダルクのチャペル』に安置される『ジャンヌ・ダルクの像』

(右)目を閉じてもの思うようなジャンヌ・ダルクの美しい像 甲冑姿で衣装にはフランス王家の百合の紋章が描かれている。ジャンヌは20世紀初頭聖人に列せられています。

ジャンヌ亡き後 当時フランス王国の王都になっていたランスで催された饗宴でパン・デピスが供されると、晴れて王となったシャルル7世がこれを高く評価したと伝わります。そして1436年フランス軍はパリ奪還に成功し、シャルル7 世は1437年10月にパリ入城を果たすことになるのです。

パティシエ

1440年 シャルル7世統治下 パリ奉行のアンブロワーズ・ドローリーによって初めて「パティシエ」の身分規定が定められました。食事のパンや、パイなど練り粉を使った食べ物「パテ」と、聖体拝領に使われるパン:「オブレoblees」を作っていた「オブロワイエoubloyers’」から、パテを作る職人が分離独立して「パティシエ」が登場したのです。

当時は生肉を保存するのが難しく、肉の供給も不安定だったため、肉を加熱して保存性を持たせるパイがおおいに好まれていました。わずかな肉があれば、そこにハーブ、香辛料、パンくず、卵を混ぜて生地に包み込み、型に入れて灰の中で焼くのです。パティシエは肉に加え、魚、チーズ、果物とあらゆる種類のパイを作っていました。

都市の住民は食べ物大半を、ロースト、フライ、グリエ専門の料理人である『ロティスール』 や、『パティシエ』や惣菜屋『ビュフェティエ』あるいは『露店』で買っていたため、職業間で激しい販売競争がくり広げられることとなり、それぞれの仕事区分と調理するものを定める規定が必要だったのです。

アニェス・ソレル Agnès Sorel,

1443年 40歳のシャルル7世は義弟の妻の侍女として仕えていたアニェス・ソレルに出会います。美しいだけでなく、知性も備えた22歳のソレルに瞬く間に魅せられたシャルル7世は、アニェスのためにヨーロッパで初の「公妾」の地位を設けました。

王たちの結婚は、政略結婚がほとんどで、しかもカトリックの教義では、離婚も側室を持つことも禁じられていましたから、愛人たちは日陰の存在であることを強いられ、かりに子供ができても婚外子とされ、王位継承権は得られません。そんな愛人を、「王に仕える存在」として認知し、王妃に継ぐ地位、そして王妃と同等かそれ以上の待遇を受けられる存在とする制度です。

さらにシャルル7世はアニェスに私邸としてロシュ城を与えています。

一方 正妻のマリー・ダンジュー Marie d'Anjouは、夫との間に12子をもうけており、シャルル7世の愛情はアニェス・ソレルに向けられていたものの、マリーの寛容さとアニェスの立場を弁えた振る舞いによって、2人の仲は悪くはなく、共に連れ立つこともあったと伝わります。

宮廷で王妃に継ぐ第2位の立場を確立した彼女は、贅沢な生活を送るようになり、それまでは「権力の象徴」として、男性しか身に着けられないとされたダイヤモンドも、シャルル7世からプレゼントされることで、女性として初めて身に着け、宮中でもファッションリーダー的存在となります。

一方で、アニェスは優柔不断なシャルル7世を支え、励まして、政務を助けました。自分に夢中な王に発破をかけてイギリス軍との戦いに向かわせ、フランスはイギリス軍に占領されていた領土を奪回していったのです。

こうして宮廷内で大きな影響力を持っていたアニェス・ソレルは、『パン・デピス』を「食べ飽きることがない」と表現し、宮廷の食事に度々出されるこのお菓子が大好物でした。

…当時は塩味のパン・デピスも好まれ、立方体にカットされて、シチュー等の煮込み料理に加えてとろみをつけるのに使われていました。当時宮廷に仕えるパティシエは料理にスパイスを大量に使う傾向にあったのですが、王族や貴族に提供するからこそ、貴重で高価なスパイスを多用したともいえます。

1450年のジュミエージュ遠征に赴くシャルル7世に同行した彼女はそのような食事をとったあと、激しい痙攣に襲われて、みごもっていた4人目の子どもを早産したあげく、息を引き取ってしまった。当時死因は赤痢とされましたが、人々は愛妾の影響下にある父を快く思わない王太子のちのルイ11世が、パン・デピスの熱いソースになにか毒を入れさせたのではないかと噂しました。2005年に行われた遺体調査で、死因は水銀中毒であると結論づけられましたが、当時水銀は化粧品や虫下しとしても用いられており、殺人か否かについては言及されないままとなっています。

アレキサンドル・デュマも『大料理辞典』のパン・デピスの項で、「麗しのアニエス・ソレルはこの菓子を好んで飽くことがなかった。こんなところから18世紀に書かれた作品の中にはアニエス・ソレルはパン・デピスによって王太子に毒殺されたのであるとするものさえ現れている。だから、この王太子 後のルイ11世は父君があまりにもパン・デピスを好んでいたから、絶対に手を出さなかったと。」書いています。

アンジェ美術館所蔵の肖像画では、「忠誠」のシンボルである犬に手を置くことで、王を支えたアニエスの愛情と忠誠心を表しているとされる。

(右)アニェス・ソレル 16世紀前半 画家不詳 フランス、アンジェ美術館蔵

その後シャルル7世は領土を回復し、1453年イギリスを大陸から全面撤退させ、戦争を終結させると、統治機構や軍制・財政を改革し、王権の強化に努めて、フランスを中央集権的な近代国家へと導きました。

前出のアレキサンドル・デュマは、「はるかな昔からパン・デピスの中ではランスで作られているものが最良とされてきた。15世紀末、ルイ12世の治世下、このパンはたいへんな名声を博しており、パリで作られたものなど2級品でしかなかった。」と、シャルル7世亡き後50年ほど経た時代の様子を述べ、ライ麦粉とシャンパーニュ地方産の蜂蜜を使って作られた「ランスのパン・デピス は最良」との名声が高まっていたことを伝えています。

さらに、デュマは、ルイ12世に続く国王「フランソワ1世(1494~1547)の姉君マルグリット・ドゥ・ヴァロワ(またはナヴァル)(1492~1549)もパン・デピスが大好物であった。」と続けています。

カトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis

1533年 フランソワ1世の次男フランスの王子オルレアン公アンリと、イタリア フィレンツェの大富豪メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis(1519~1589年)の婚礼がマルセイユで行われました。2人は共に14歳。

当時メディチ家はイタリアでは有力家門になっていましたが、フランス宮廷では不釣り合いな結婚とみなされ、カトリーヌは「フィレンツェの商人の娘」と陰口をささやかれますが、背が高く頑丈な身体の持ち主で、頭の回転が速く、快活で精力的、知的好奇心も旺盛 古典や芸術の教養もあったため、宮廷内で受け入れられ、音楽や狩り、乗馬を楽しみ、イタリアの料理法で食卓を豊かにしていきます。

しかし夫アンリは20歳年上の愛人ディアーヌに心を奪われており、結婚生活は心満たされるものではありませんでした。それでも25歳から次々と7人の子どもをもうけ、この間1547年に夫が王位についてアンリ2世となると、王妃としての立場を揺るぎないものにします。

40歳で夫が死去。以後実子の王子3人が次々国王になると摂政として30年間君臨。イタリア料理をフランスに伝え、学問、芸術、建築にも造詣が深く文化を擁護し、夫が愛人に与えたロワール地方のシュノンソー城を取り戻し、美しく改築。現在城は世界遺産となっています。

そんなカトリーヌがメディチ家出身であるがために絶えなかったのが、毒殺の噂です。

メディチ家は13世紀ごろからフィレンツェで薬屋を営んで財をなし、14世紀末には銀行・貿易業で台頭していきます。家の歴史は「メディスン:薬 (英語:medicine,仏語:médecine) に残り、当時万能薬とされて東方から運ばれた香辛料などを扱っていました。

そんなメディチ家の先祖の家業から、「毒を盛る女」、「マダム・サタン Madame Satan」、「蛇姫 Madame la Serpent」と呼ばれ、義父フランソワ1世の第1王子フランソワが急死した際にはカトリーヌによる毒殺が噂され、また自らがカトリックとユグノー(カルヴァン派プロテスタント)両派の和解の象徴となると、娘マルグリットとの結婚を持ちかけ、説得して婚約が成立したナヴァール王国の王子アンリの母ジャンヌ・ダルブレが急死した際にもカトリーヌが毒殺したとプロテスタントから非難されています。

カトリーヌはアンリ2世に嫁ぐとき、1,000人もの使用人を従えてきましたが、その中には占星術師や香水調合師、魔術師や錬金術師も含まれ、彼女に重用されていました。

宮廷で催された宴で、砕いたパンデピスを入れて作られた煮込み料理を食べた宮廷人達が、次々と腹痛に襲われると、カトリーヌが実家から連れてきた家臣たちが、「麦粉と混ぜ合わせるスパイスに紛らせ、毒を盛っている」という噂が流れたため、たちまち疑惑の火種となって、このためパン・デピスはパリやベルサイユの宮殿で姿を潜めてしまいます。

ランスが一大生産地に…

歴代フランス王が戴冠式を行った街シャンパーニュのランスReimsでは、ライ麦粉とシャンパーニュ地方産の蜂蜜を使って作られる「ランスのパン・デピス が最良」との名声を背景に製造が続きますが、パンデピス職人達は製造権の独占を主張して、1571年『オブロワイエ』ギルド(同業者組合)から、『パン・デピス』ギルドとして独立し、大司教の執行官によって法人としての地位を与えられました。さらに1596年 アンリ 4 世によって正式に承認され、国王はこれらギルドのパン職人だけにパンデピス作りの特権を与えました。特権には権利と義務が含まれ、パンデピス製造を独占して行える権利とともに、職人たちには、アンリ4世が発布させたギルドの職業規約を守る義務が課されました。親方:maîtreメートルの地位を守るためには定められたレシピに従ってパンデピスを作らなければならなかったのです。

1655年には約20人のパンデピス職人の親方:メートル・パン・デピシエmaîtres pain d’épiciersがおり、18世紀末のフランス革命まで200年間フランス随一の生産を誇り、大変な名声を博して隆盛を極めました。

1607年 リヨンで出版された料理と食習慣の百科事典『健康宝典あるいは人間の命の管理』に、当時のパンデピスの製法が書かれています。

*現代の計量単位変換1リーヴル=1/2Kg  1オンス=30.59g   1ドラクマ=3.24g

細かい小麦粉  4リーブル =2kg

煮立てた蜂蜜  1ルーブル = 500g

シナモン      2オンス = 61.18g

生姜           1/2オンス = 15.295g

胡椒           2ドラクマ = 6.48g

クローブ       2ドラクマ = 6.48g

それぞれ細かく砕き、全部一緒に湯と混ぜる。

カトリーヌ・ド・メディシスにかけられた毒物混入疑惑で人気が衰えたパンデピスも、太陽王ルイ14世(1638~1715)の時代になると、スイーツをこよなく愛した王の寵愛を受け、パリの宮殿でもその人気が復活しています。

この頃になるとパン・デピスは『パヴェ・ド・サンテ Pavé de santé』:「健康パン」と呼ばれて売られており、「santé」は「健康」を意味し、古来薬として扱われたスパイスと蜂蜜がたっぷり使われるパンですから、間違いなく健康志向に応えられるパン!健康や医療効果を期待してスライスしてバターとジャムをつけて食べられていました。

18世紀初頭 ルイ15世の治世に入る頃には、修道院で生まれたノネットに人気が集まります。

パンデピス生地をコンパクトに成形し、中にコンフィチュールを入れた甘くて柔らかなそれは、もはやパンというより、ガトーやプティ・フール。 パールシュガーをまぶすスタイルも人気でした。

18世紀末には、薄く延ばした生地を人や動物を形どった抜き型でくり抜き、焼き上げるタイプのパン・デピスが現れ、1827年にパリの動物園でキリンが公開された時には、キリンを形どったパン・デピスが流行したと伝わります。

また この頃になると、ジンジャーブレッドメーカーと呼ばれた商人が、携帯用のオーブン:「カントリーオーブン」を運びながら移動し、屋外でパンデピスを焼くサービスを行っていたといいますから、その人気のほどがうかがえるというものです。

 

(右)「Reims のジンジャーブレッドメーカー」18世紀の彫刻 

パリ カーナバレット博物館蔵

19世紀に活躍した作家で、大の食通でも知られるアレクサンドル・デュマは著書『大料理事典』の中で「パン・デピスの材料は極上のライ麦粉、砂糖あるいは黄色っぽい蜂蜜、それにスパイスである。全部をまとめて焼いて、望みの形の固まりに切り分ける。パン・デピスは食欲を刺激し、消化力を強め、保持する。ただし食べ過ぎは禁物である…」「選び抜かれた良質の蜂蜜を用い、香料をひかえたパン・デピスは、痰を切るのを助け、のどの渇きをいやし、便通を促す。湿気によって柔らかくならないように保存するには、焼成の温度が適当でなければならず、日がたって変質しないようにするには、ときどき火であぶったり、陽に当てなくてはならない。」と述べていることからも、依然パン・デピスは支持され、その健康効果に期待が大きかったことが伺えます。

フランス革命によってギルドが解体したため、ランスのパンデピスは急速に衰退して、第一次世界大戦の戦禍でも打撃を受け、主要生産地はディジョンに移ります。

Nonnette ノネット

中世期 ランスの修道院で、パンデピス同様ライ麦粉と蜂蜜を合わせた生地を小さく丸く焼き、中にコンフィチュールなどを詰めたお菓子が生まれました。修道女:「Nonne ノンヌ」が作っていたことに由来して、修道女「nonne」と、可愛い、小さいを表す「ette」から『Nonnette』「小さな修道女:ノネット」と呼ばれるようになると、しっとりとして柔らかく、小型で持ち運びやすいノネットは巡礼の旅に出る修道士の旅路の食料とされ、さらに巡礼先で販売されました。

ランスはイタリアとフランドル、ドイツとスペインを結ぶ交通の要衝地であるため、旅行者や集まる商人が購入すると、パリをはじめとして各他に運ばれその人気が広がっていきます。さらにパンデピスギルドの親方:メートル・パン・デピシエたちも生産に乗り出すと、パリや北部や東部の大都市に輸出されて人気を博しました。

その人気ぶりをうかがわせるエピソードが残ります。

ルイ14世の時代に生きたセヴィニエ公爵夫人Madame de Sévigné(1626~1696)は、嫁いだ娘に宛てた書簡が死後に公開され、その模範的フランス語と時代風俗を綴った機知に富んだ書簡が文学者たちから高い評価を得ている女性ですが、彼女はランスからノネットを取り寄せ、ネロリやオレンジの花のエッセンスで味付けをして、パールシュガーをかけたノネットを食べていたと伝わります。

 

(左)セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル・デ・セヴィニェ (Marie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné、

 

ルフェーブルの描いたセヴィニエ夫人像 1665年

1725年初頭 ルイ15世の婚約者となったポーランド元国王スタニスワフ1世の娘マリー・レクチェンスカMarie Leszczyńskaがランスから40キロほど離れたシャロンの町の「ノートル=ダム=アン=ヴォー教会Notre-Dame-en-Vaux」を訪問すると、シルクのダマスク織りとリボンで覆われた12個の籐の箱が贈り物として差し出され、箱にはそれぞれ地元の小さなスパイスケーキが詰められていました。マリーがシャロンの街のノネットを持ち帰ると、宮廷で大変話題となり、そのお菓子は、彼女の訪問を記念して「ノネット・ア・ラ・レーヌ:王妃のノネット」と名付けられ、以来戴冠式のために「シテ・デ・サクレ:ノートルダム教会」を訪れる王太子や賓客に振る舞われるようになったということです。

18世紀 王子や貴族が訪問者を中庭に招いてノンネットを振る舞うことが流行し、慣例となっていました。 フランス革命後ナポレオン法典の起草に関わったとして知られるジャン=ジャック・レジ・ド・カンバセレスJean-Jacques Régis de Cambacérès(1753~1824)も定期的にランスからノンネットを取り寄せて楽しんでいました。こうしてノネットは、18 世紀にはランスの代表的なペストリーの 1 つになりました。

アレクサンドル・デュマが著書『大料理事典』の中で、当時を振り返り、「17世紀の終わり頃から18世紀の初めころにかけて、ランスの「クロケ」と「ノネット」が贈り物としてよく用いられた。もはや当代では子供のおやつにしか過ぎないが、それでもかなり大きな取引が行われている。」と書いていることからも、当時のノネット人気が伺えます。ちなみにクロケCroquetは、アーモンドパウダー、卵、砂糖で作った生地を小さな棒状または薄く細長い形にして焼いたお菓子です。

19世紀半ばにはディジョンの修道女たちもノネットを作るようになると、それはすぐに名物となり、ランスのノネットをしのぐほど有名になっていきます。

ランスのノネットは、ライ麦粉と蜂蜜を使用し、オレンジマーマレードを詰め、粉砂糖、卵白、少量のレモンまたはオレンジジュースで作ったアイシングをかけて仕上げられます。そこで使われるのはオレンジ マーマレードに限られ、その伝統は現在も変わりません。

それに対してディジョンのノネットは、ブラック カラント、カシス、アプリコット、チェリー、パイナップル、プラムなど、さまざまなコンフィチュールを詰め、アイシングにラム酒やキルシュ、バニラ、チョコレート、アニスなどで風味付けするものも考案されてバラエティー豊かで、今ではディジョンの名物になっています。

現在ランスでノネットを製造しているのはメゾン フォシエMaison Fossierのみとなっています。