フルーツケーキ   ,  プラムケーキ  ,  トゥエルフス・ナイト・ケーキ 🇬🇧

フルーツケーキはイギリスで古くから結婚式やクリスマスといった祝祭の日に作り継がれてきた祝い菓子です。遠来のスパイスやドライフルーツ、砂糖漬けのフルーツ、ナッツ類をたっぷり入れたリッチなケーキは、「プラムケーキ」、「クィーン エリザベスケーキ」、「トゥエルフス・ナイト・ケーキ」などと呼ばれながら今なお健在。歴代王室のブライダルケーキも務め、その起源をたどると、古代ローマの統治時代にまで遡るイギリスの歴史と共に歩んできた由緒のある食の文化財的存在です。

紀元43年イギリスはローマの属州となり、410年にローマ軍が去るまでの間 ローマ帝国の文化や宗教が浸透し、未知の食材も豊富に持ち込まれ、食生活の向上も進みました。

サトゥーラ satura

ザクロの種、デーツやレーズンなどと大麦の粉を混ぜ、すでに焼かれたパンをパン種として加え、蜂蜜やハニーワインを加えて発酵を促した生地を成形して焼いたパンケーキ『サトゥーラsatura』はローマ人がお祝い菓子とした贅沢なケーキで、当時ゲルマニア(イギリス)に暮らしていたケルトの人々にとっては、その材料も、パンを発酵させる調理技術も新鮮で、画期的な食文化の改革につながりました。

サトゥーラの遺産は生き続け、11 世紀 東方に遠征した十字軍がシナモン、ナツメグ、クローブなどのスパイスや、様々な柑橘類やデーツ、砂糖を持ち帰ると、次第に貿易ルートが開拓されて、フルーツは乾燥させて輸送し、ご馳走として食べるものにドライフルーツやスパイスを加えることが流行しました。とはいえ、これらの材料は希少で高価だったため、ケーキに入れることは富と地位の象徴でした。

プラムケーキ

14世紀に入る頃には交易によって運び込まれるドライフルーツの種類や量が増え、イギリスではそうしたドライフルーツを総称して「プラム」と呼ぶようになり、ケーキにも使われると「プラムケーキ」と呼ばれて人気を博しました。

このケーキは、小麦粉、卵、バターで作った濃厚な生地に酵母を加え、さらにレーズンやカラントを加えることが多かったようです。希少で高価な材料を使う贅沢品としてクリスマスや結婚式などの特別な機会に焼かれ、エールやワインなどのアルコールに浸されることも多く、長期間保存するのに役立ちました。

ケーキが熟成するにつれて風味が深まり、時間の経過とともにより濃厚で複雑な味になっていくことがわかると、お祝い菓子として数週間、あるいは数か月も前に作られることもありました。

プラムケーキは中世からルネッサンス期まで、祝祭のケーキとしての地位を保ち続け、クリスマスではなくてはならないケーキになっていきます。

無秩序の君主

そこでの楽しみの 1 つは、古代ローマのサートゥルナリア祭で、ケーキ『サトゥーラ』にそら豆を入れて楽しまれた『無秩序の君主 Saturnalicius princeps』ゲームをプラムケーキで再現することでした。無秩序の君主を選ぶために、ケーキ生地の中にそら豆を入れて焼き、豆の入ったスライスを受け取った人は、豆の王として「戴冠」されました。時にはエンドウ豆も入れて、当たった人はエンドウ豆の女王として振舞いました。この余興は、チューダー朝初期に特に人気があり、豆の王はクリスマス期間中(12月25日から1月6日まで)盛大にに祝賀を取り仕切り、ヘンリー7世(1457-1509)は、無秩序の君主を修道院長に替えて自ら演じて楽しんだと伝わります。

こうした行き過ぎた風潮に対し、エリザベス1世(1533-1603)は費用のかかる祝祭を削減し、エリザベス朝では聖ステファノ(12月26日)、聖ヨハネ(12月27日)、聖イノセント(12月28日)、(1月1日)、そして十二夜の5つの公式の祝日のみを祝うように改めています。

クィーン エリザベス ケーキ

1558年エリザベス1世は25歳で国王に即位します。当時のイギリスはヨーロッパの弱小国で、海洋進出もポルトガルやスペインに遅れをとっていましたが、女王の時代になると、アフリカの西岸や東地中海方面に進出し、1560年代から海賊などを使ってカリブ海での勢力を広げ、アメリカにも進出。アメリカのスペイン植民地において密貿易を行ったばかりでなく、アメリカから荷を積んで帰ってくるスペイン船を襲撃略奪したため、女王の政府は略奪品によってたいそう潤ったのです。

エリザベス1世(イングランド女王)(ウォバーン・アビー蔵)©Public Domain

イングランドが七つの海を征服する基礎が築かれていくこの時代 各地からドライフルーツやスパイス、ナッツ類が届けられるようになり、それらレーズンやカラント、オレンジやレモンなどのドライフルーツをカリブから運ばれるラム酒に漬け込んだり、砂糖の供給量が増えたことも手伝って果物を砂糖漬けやシロップ漬け、ジャムにする加工法も開発され保存調理が進化していきました。そうしてリッチな風味をまとったドライフルーツにナッツ類やスパイス類も加えて焼き上げるプラムケーキ」は、当時女王の名を冠して「クィーンエリザベスケーキ」と呼ばれました。

女王もこのケーキが好物で、自ら焼かれたとの記録が残っています。当時の市民にとっては砂糖やスパイス、ドライフルーツは高価な食材でしたから、クィーンエリザベスケーキはクリスマスや特権階級の結婚式など特別の日に振舞われ、 あらゆる祝い事の中心にあるお菓子でした

エリザベス1世はイングランドを繁栄へと導き、45年にわたり王国を統治しました。

ピューリタン改革(1642-1649)後、降誕日から公現祭までのクリスマス期間が宗教的なお祭りとして熱狂的に祝われることはなくなりましたが、プラムケーキは存続しました

パンからケーキへ

中世およびテューダー朝時代 プラムケーキはイーストで膨らまされ、フルーツたっぷりのブリオッシュのようなパンでした。1600年代後半にケーキ用フープ(丸型)が導入され、1700年代初頭に溶き卵を使ってケーキを膨らませる調理技術が開発されると、それまでのプラム入りパンはプラム入りケーキに置き換えられていきました。

卵の撹拌すると泡立つ「起泡性」、加熱すると固まる「熱凝固性」、水と油を混ぜる「「乳化性」という3つの特性をケーキ作りに活かすのは画期的な発見でした。

*卵の白身は含まれるたんぱく質の作用で泡立ちやすく、細かい気泡を長く抱え込むことが可能です。さらに、卵は加熱するとたんぱく質が固まります。つまり気泡がつぶれずにそのまま生地の中で小さな気泡として留まるため、生地がふんわりと焼き上がるのです。そして、卵黄に含まれる脂質:レシチンは水分と油分を乳化させるため、生地が分離することを防ぐ働きをします。

膨張剤として炭酸水素アンモニウム:鹿角塩が化学合成されるようになるのは1800年代初頭のこと それまで小麦粉生地を膨らませる手段として、普及していきます。

とはいえ、イーストで膨らませたケーキが衰退しつつあった1800年代に入っても、プラムケーキは昔ながらにイーストを使ったレシピも残っていたそう。その理由は、フルーツとナッツの量が圧倒的に上回っており、その他の材料はつなぎの役割にとどまったため、発酵ケーキと卵白の泡ケーキの焼き上がりにあまり違いが感じられなかったから!当時 リッチな材料がたっぷり入ったプラムケーキはクリスマスの祝祭のためだけでなく、それから続く厳寒期に少しずつ食べて春を待つ貴重な食料でもありました。

ドイツのシュトレンや、アルザス地方のベラベッカにも共通する冬の間の滋養食として期待されていた側面を思い起こさせてくれるエピソードです。

1700年代にはクリスマスや結婚式など祝祭の華であり、豊かさの象徴として巨大化し、レーズン、カラント、砂糖漬けの柑橘類の皮などのドライ フルーツと、ナツメグ、シナモン、メースなどのスパイスと小麦粉、バター、卵、砂糖の総重量が数ポンドも使って作られ、風味と保存性を高めるために、ブランデーやラム酒などのアルコールに浸されました。

フルーツケーキを熟成させる伝統は続き、イベントの数週間、あるいは数か月前に作られ、熟成を待つ間ケーキにアルコールを追加することで、ケーキはよりしっとり風味豊かになりました。

プラムケーキが初めてレシピに登場するのは1769年のこと。「花嫁のケーキ」:『ブライドケーキ』という名で紹介されており、それは砂糖漬けのフルーツやナッツをパウンドケーキに入れて焼くものです。

1805年トラファルガー沖で英国艦隊はスペイン、フランスの連合軍艦隊を撃破。これによって海洋上の制海権が、スペインから英国へ移り、英国が世界の7つの海に君臨する時代を迎えます。海外からの財宝や貴重な資源などから、植物や食材までが続々と英国へ運び込まれ、英国は富が潤い、大英帝国へと発展 こうした中1800年代に入ると砂糖の供給量はますます増えていきます。

トゥエルフス・ナイト・ケーキ Twelfth Night Cake

キリスト教では12月25日にイエス・キリストがこの世に降誕されたことを祝う『クリスマス』のミサが行われ、その日から12日後の1月6日に東方の三博士が救世主イエス・キリストの生誕を認め(公現し)祝福する『公現祭:エピファニー』が祝われるこの一連が『クリスマス』です。近年宗教色が薄れ、クリスマスの期間は短縮され、12月25日の降誕祭に祝祭が集中する傾向がありますが、19世紀まではエピファニーが最も重要な日とされ、その夜 十二夜:トゥエルフス・ナイトは盛大な祝いの宴が催されていました。

1700年代半ばから プラムケーキはクリスマスとの結びつきが強くなり、当時クリスマス期間で最もウェイトがおかれていた公現祭の日を飾る『トゥエルフス・ナイト・ケーキ Twelfth Night Cake』として、砂糖や蝋で作られた精巧な場面や人形で豪華に飾られるようになります。王冠が最も人気のある装飾で、通常は白いアイシングが使われ、当時はガムペーストと呼ばれた砂糖ペーストを木製の型に入れて型取られました。

(右)リージェンシー十二夜ケーキ – プリンス・オブ・ウェールズの羽根付き

美食家で知られたジョージ4世(在位1820-1830)を囲むトゥエルフス・ナイトを描いた光景には、テーブルにシュガーペーストが全面に施され、大きな羽飾りの上に王冠がのったトゥエルフス・ナイト・ケーキがのっています。

人々は古代ローマが残した『無秩序の君主』のゲームを忘れることなく楽しみ続けていました。1800年代初頭までに、ケーキの中の象徴は豆とエンドウ豆から、指ぬきや指輪などの銀の装身具に進化していましたが、ビクトリア朝(1837-1901)時代の人々は祝典を大いに楽しみ、ペストリーショップではケーキと一緒に十二夜のキャラクターカードが販売されました。パーティーでゲストはそれぞれカードを1枚ずつ選択します。カードにはキャラクターのイラストとそれを説明するフレーズが書かれており、ゲストたちは先ずカードにあるフレーズを声に出して読み、その後そのキャラクターを演じて真夜中まで過ごしたのです。

ビクトリア朝時代 プラムケーキは黄金時代を迎え、クリスマスのお祝いに欠かせないものとなりました。砂糖漬けのフルーツ、柑橘類の皮やチェリーもよく使われました。女王のウェデイングケーキ以降プラムケーキはマジパンで覆われ、その後ロイヤルアイシングでアイシングされ、凝ったデザインで飾られることが多くなり、それは祝い菓子であるだけでなく、ビクトリア朝時代の贅沢と伝統への執着の象徴でもありました。ホリデーシーズンにフルーツケーキを贈る習慣が広まり、家庭ではクリスマスケーキを保存して、年間を通じて特別な機会に食べる習慣が生れています。

1825年 ウィリアム・ホーンは著書『The Everyday Book』の中で、十二夜を前に人々がトゥエルフス・ナイト・ケーキを求めてペストリーショップに詰めかけ、身動きができないほど混乱している様子を描いています。

Such are the scenes, that, at the front and side
Of the Twelfth-cake-shops, scatter wild dismay;
As up the slipp’ry curb, or pavement wide,
We seek the pastrycooks, to keep Twelfth-day;
While ladies stand aghast, in speechless trance,
Look round – dare not go back – and yet dare not advance. (William Hone, 1825)

12夜のケーキ屋の前や横では、このような光景が見られ、人々は大騒ぎしている。
滑りやすい縁石や広い歩道を上って、
12夜を祝うためにケーキ職人を探している。
女性たちは呆然と立ち尽くし、言葉も出ないまま、
辺りを見回すが、引き返すこともできず、前に進むこともできない。

(ウィリアム・ホーン、1825 年)

菓子職人にとって十二夜は「大繁盛」の日で、値段も大きさもさまざまなトゥエルフス・ナイト・ケーキを山と積んで売りさばきました。

1849年 イラストレーション入りでニュースを伝える週刊新聞『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』には「女王の十二夜のケーキ」が報じられ、人々の関心を呼んでいます。

「女王の十二夜のケーキ」1849年、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』より

1800年代半ば以降オーブン機能をもつ*ヴィクトリアン キッチン ストーブを備える家庭が増えたこともあり、市民の間で結婚式や休日などの特別な行事のためにフルーツケーキを作ることも流行します。

*『Victorian Kitchen stove 』=コンロとオーブンとストーブの3役を兼ねる道具で、湯沸しのついた4役タイプもありました。燃焼室で薪や石炭などを燃やし、オーブンとコンロを温めます。コンロ部分はテーブル板のように平らで、ここに鍋をのせて調理したり、お湯を沸かしたり… 暖房を兼ねていましたから、リビングの中心に設置されるのが一般的でした。

ロンドンでは十二夜祭りがエスカレートして過激な乱痴気騒ぎのようになってしまったことから、1870年にビクトリア女王はこれを禁止!それを受けて19世紀も終わりに近づくと、クリスマスの祝いはクリスマス当日を中心におこなわれるようになり、『十二夜のケーキ』としてのプラムケーキは影が薄くなっていきました。

そしてヴィクトリア女王が正式なクリスマスデザートとして『プラムプディング』を採用すると『無秩序の君主』ゲームは『プラムプディング』に引き継がれ、「これが当たると、来たる年の幸せを呼ぶ」と、ヴィクトリア女王の肖像が刻まれた6ペンス銀貨が新たにラッキーチャームに加わりました。

クリスマスでは主役の座をおりましたが、プラムケーキが忘れられてしまったわけではなく、大英帝国の歴史を背負ったリッチなケーキとして結婚式を始めとしたお祝いの場面を飾るケーキとして現代まで作り継がれています。そして、未婚のウエディングゲストが枕の下にフルーツケーキを一切れ置くと、未来の結婚相手が夢に出てくるとの言い伝えもいまだ健在!?

The marriage of Albert and Victoria

産業革命を経て社会が急速に変化し、世界の陸地の1/4を手中に収めた『大英帝国』が最も光り輝いた時代 1837年にヴィクトリア女王が即位します。そして1840年 ヴィクトリアは自ら従兄弟にあたるザクセン・コーブルク・ゴータ公国の王子アルバートにプロポーズして結婚   披露パーティでは、直径90cm、重さ136kgもある巨大なウェディングケーキが用意されました。このケーキは世界中から運ばれた砂糖やフルーツ、ブランデーをふんだんに使った贅沢なもので、薔薇を愛した女王らしく、フルーツケーキの周囲に可憐なローズガーランドのシュガーアイシングの細工が施され、華麗に装飾されたものでした。

砂糖と卵白を練り合わせて作るアイシングを使って装飾するケーキを見慣れていなかった当時の国民は、白く巨大なケーキを「フルーツケーキのおばけ」と評し、あまり評判がよろしくなかったようです。ともあれ、アイシング仕上げは次第に模倣されるようになって、フルーツケーキにアイシングで装飾して仕上げる白いウエデイングケーキが一般化していきます。

女王が身につけたのは淡いクリーム色で無地のサテン地のウエディングドレスで、デボン州に伝わる手織りのボビンレースとオレンジの花で飾られていました。

 白いドレスと白いマジパン、アイシングで装飾されたウエディングケーキ…『ホワイトウエディング』のスタイルはヴィクトリア女王のこのウエディングから始まったのです。

The marriage of Friedrich III and Victoria

ヴィクトリア女王の結婚式から18年後に登場するのが「塔のように高いウェディングケーキ」です。1858年、ヴィクトリア女王の長女であるヴィクトリア王女とプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム王子との結婚に際し用意されたのは、高さ約2.1mの巨大かつエレガントなケーキで、3段構造になっていて、うち上の2段はすべてシュガークラフトで、食べられるのは一番下の段だけでした。それはロンドンのセント・ブライド教会にそびえる鐘楼をモデルにしたもので、その後一般市民も、こぞってこの三段ケーキを真似したため、このスタイルは瞬く間に広まっていきました。

(左)ヴィクトリア王女の三段ケーキ brides.comjpg

(右)セント・ブライド教会 http://www.stbrides.com

3段にはそれぞれ役目が生まれます…

下段は、結婚式の招待客と一緒に分かち合って食べる

中段は、出席できなかった方に届ける

上段は1年後の結婚記念日もしくはBaby誕生の際にアニバーサリーケーキとしていただきます。

*「未婚のゲストがケーキをお土産にもらって帰り、枕の下に入れて寝ると、夢の中に将来の結婚相手が現れる」といわれ、人気を博しました。

*たっぷりラム酒とスパイスが効いたケーキの保存性は高く、1年経過くらいではビクともしません!お土産に持ち帰った王族のウエッディングケーキが30~40年後のオークションに出品されることもあるくらいですから…!

The marriage of Charles and Diana

1981年 数千人が出席したチャールズ皇太子とダイアナ妃の披露宴には、27台のウエディング・ケーキが用意されました。メインケーキを担当したのは、英国海軍料理学校の菓子部門の長であるデイヴィッド・エイヴリー氏 何段にも積み重ねられたフルーツケーキは小さな銀の箱に分けられ、お土産として招待客に配られました…

 harpersbazaar.com

 The marriage of William and Catherine

2011年 ウィリアム王子とキャサリン妃は、英国のパティシエ、フィオナ・ケアンズ氏に依頼し、8段重ねの伝統的なスタイルのウエディングケーキをセレクトしました。フルーツがたっぷり使われたケーキは白いアイシングで覆われ、砂糖で作られた花々でデコレーションされた繊細で美しい作品  harpersbazaar.com