巡礼の旅とお土産菓子
糸杉が道しるべ… イタリア南トスカーナをゆくフランチジェーナ街道
旅にお土産は付き物ですが、中世ヨーロッパの宿場町で人気のお土産菓子は精緻な木彫りの型が浮き出て美しく、蜂蜜の優しい甘みとスパイシーな異国の香りが漂うケーキでした。
カール大帝の都ドイツ西端の街アーヘンの『プリンテン』、南ドイツ ニュルンベルクの『レープクーヘン』、イタリアの巡礼路ファランチジェーナ沿いの街シエナの『パンフォルテ 』、クロアチア最大の聖地マリヤ・ビストリッツァの『リツィタル』…
各地の名物菓子は、様々な願いや想いを抱えて歩く巡礼者の旅に寄り添ってきました。帰宅を待つ家族や友人に渡すのを楽しみにケーキのレリーフ模様を選び、道中大切に持ち歩いた旅人の気持ちを想いながら中世の巡礼路を歩いてみましょう。
キリスト教公認で始まったイスラエル巡礼
4世紀初頭ローマ帝国のコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認。それ以後エルサレムをはじめとするキリスト教ゆかりの地はローマ帝国の後押しで聖地化され、街道が整備されて、巡礼が盛んになっていきます。
4世紀後半南ヨーロッパから巡礼の旅にでた女性エゲリアの日記が残され、当時の様子を知る手がかりとなっています。
歴史学研究会編『巡礼と民衆信仰』青木書店1999年「古代末期のキリスト教巡礼と女性―エゲリアの場合」p70を参考に…
エゲリアはヒスパニア北西部もしくは南部ガリア出身と考えられ、381年に故郷を発って東方聖地に向かい、エルサレムを起点にエジプトやパレスチナ、最後にシリアから小アジアを経て384年に故郷に戻ります。その間 故郷で待つ信仰をともにする女性たちに聖地の情景を伝える目的で日記風の記録を残しました。
その足跡はエジプトからシナイ山にかけてモーセの「出エジプト記」ゆかりの地を巡り、エルサレム帰還後パレスチナのヨブの墓、シリアのエデッサでアブガル王がもらったイエス直筆の手紙が保存されている場所を探訪し、旅の終わりに女性聖人テクラの聖地を訪問しています。
↓モーセが神から十戒を授かったとされるシナイ山
(左)ベツレヘムにある『聖誕教会』は4世紀ローマ帝国のコンスタンティヌス1世によってイエスが生まれた洞窟跡に建てられました。その後イスラムの手に落ちますが、11世紀 十字軍がエルサレムやベツレヘムを奪還し堅固な外壁を築いています。(右)祭壇の地下に、イエスが生まれたといわれる場所が祭られています。↓
by https://allabout.co.jp/gm/gc/450626/
シリア東部のエデッサに到着した時、エゲリアは現地の主教に「地中海の西の端から東側によくやってきた。」と歓迎され、日記には軍隊が街道を守護している事例も言及されており、この頃すでに各聖地で巡礼者を迎える態勢が整えられていたことがわかります。
中世 巡礼という名目で移動の自由を得ていた女性がいたことは興味深く、頼もしく、その勇気に感服です。
その後395年ローマ帝国は東西に分裂 622年にはイスラム教が興り、国家を建設して勢力を拡大し、聖地エルサレムはイスラムの支配下に入ります。それ以来この地域は十字軍の遠征、領土争いとそれぞれの思惑や信仰がぶつかり合う場となったまま長い年月が過ぎているのです。
三大巡礼路の誕生
11~12世紀になると、『エルサレム』に加え、ローマの『サン・ピエトロ大聖堂』、スペイン西端の『サンティアゴ・デ・コンポステーラ』が三大巡礼地となり、道路が整備されて多くの巡礼者が行き交うようになります。
ローマに向かうフランチジェーナ 街道
初代教皇聖ペトロが眠る『サン・ピエトロ大聖堂』はバチカン市国にあるカトリック教会の総本山です。サン・ピエトロは「聖ペテロ」の意で、キリストの使徒 聖ペテロのイタリア語であるサン・ピエトロに由来します。三大聖地をつなぐ街道は海側へ山側へと複雑に入り組んで伸びていましたが、北ヨーロッパとローマをつなぐ街道のひとつが『Via Francigena ヴィア・フランチジェーナ』です。
イタリアで「フランスから来る道」を意味する「フランチジェーナ街道」と呼ばれたその道は、ドーヴァー海峡を渡った英国のカンタベリー大聖堂を出発点として、イギリス、フランス、スイス、イタリアを通過し教皇領ローマに向かいます。巡礼者の中にはさらにプーリア州のブリンディシの港まで行き、そこから航路で聖地エルサレムへ向かう者もいました。
by https://www.camminodiassisi.it/via-francigena.html
大司教シジェリコ の旅
990年 イギリス カンタベリーの司教Sigericoシジェリコは、時のローマ法王ヨハネ15世からカンタベリーの大司教に任命され、サン・ピエトロ大聖堂を訪れています。シジェリコ司教は毎日20Kmを移動し、カンタベリーからローマまで79日をかけています。
ローマ法王からPallioという大司教の祭服を賜り、英国へ戻る途中 シジェリコはローマからスイスの国境まで…ヴィテルボからシエナ、ルッカを経てアペニン山脈を越え,さらにパヴィアからグラン・サン・ベルナール峠を経由してアルプスを通り抜けるフランチジェーナ街道の48か所の宿場町を記録しました。
大司教となったシジェリコは、帰国後英国カンタベリーからローマまで6600Kmの巡礼路を整備させ、巡礼を奨励します。その巡礼の旅ではシジェリコ自らがフランチジェーナ街道を歩いて残した記録が案内本の役目を果たし、イギリスからローマへ巡礼に向かうカトリック教徒の道しるべとして大いに利用されたのでした。
1191年に第3回十字軍遠征を終えたフランス王フィリップ・オーギュストもこの道路を通ってフランスに帰還しています。
王侯貴族や教会関係者、軍隊ばかりでなく、ローマを目指す農民や品物を携えた商人もこの道路を頻繁に往来し、街道は南北ヨーロッパをつなぐ主要な接続軸となりました。
シエナの街の救済院
街道が街の中心を通っていたシエナ Sienneは銀行業や商業などが大きく繁栄して、中世初期にはヨーロッパで指折りの商業都市となり、9世紀にはヨーロッパ最古の病院も創設されています。
サンタマリアデッラスカラ救済院とよばれていたこの病院はシエナ大聖堂前の広場にあり、現存するヨーロッパ最古の病院建築として現在は博物館になっています。
https://www.kurasutabi.com/シエナを歩こう/
https://www.giornirubati.it/siena-santa-maria-della-scala/
館内ホールは1400年代に描かれたフレスコ画が壁面を飾り、手術をしている外科医の様子、検尿をしている様子、女性が赤ちゃんに母乳を与えている様子、養育院内で育った子供同士が恋に落ち結婚の儀式がとり行われている様子、さらに貧しい家庭に生まれた子供たちを養護する教育機関、捨て子の養育院としても機能していた当時の様子を伺い知ることができます。
by https://www.giornirubati.it/siena-santa-maria-della-scala/
サンタマリアデッラスカラ救済院の名からも分かる通り、この病院の経営母体は修道院です。
修道院は病院内で薬として、また滋養食としても使われた『パンフォルテ』の製造販売を一手に担っていました。『パンフォルテ』は長期間保存が利いて、栄養価も高いことから巡礼の途中に立ち寄る旅人の携帯食やお土産としても喜ばれ、シエナの名物になっていきます。そしてその収益は修道院経営の一助にあてられ活発な活動を支えたのです。
そのパンフォルテ…今では街のパスティチェリア:菓子店やパーネ:パン屋が製造を担い、シエナ名物として店先を飾っています。
修道院が支えた巡礼の旅
シエナからさらに南へ進んだ南トスカーナにあるモンテ・アミアータ修道院に伝来する羊皮紙文書によると、修道院は行き倒れの旅人を看護する施療院「クセノドキウム」を付設し、トスカーナ辺境伯やシエナ伯、在地貴族と競合しながら街道沿いに巡礼者用の施設を建設し、巡礼者に宿と食事を提供しています。道は石のブロックで舗装され、公式の旅行者のためには馬の乗り換えも定期的に提供されました。
街道から脇道にそれるとローマ時代以来の温泉町があり,浴場管理人や靴職人も常駐して旅人を迎えました。 ↓古代に起源を持つトスカーナの天然温泉『サトゥルニア』
by https://www.travel.co.jp/guide/article/31490/
こうして紀元1000年頃の巡礼者は長旅ですり減らした靴を新調し、居酒屋で空腹を満たし、宿泊・救護施設で一夜の床を得、加えて露天風呂で一日の疲れを癒すことも可能だった…意外に?環境の整った中世の巡礼風景が見えてきます。
サンティアゴ・デ ・コンポステーラ
キリストに仕えた12使徒の1人ヤコブは布教に努めたスペインでは「サンティアゴ」と呼ばれ、広くその名を知られました。しかしキリストの死後その影響力を恐れたユダヤ王国(現パレスチナ)のヘロデ王によって殺されてしまいます。その亡骸は弟子たちの手によって船で運び出されたものの、その後どこに埋葬されたのか一切わからなくなったのです。
9世紀その墓を星に導かれた羊飼いがスペイン北西部の原野に発見しました。当時この一帯を治めていたアストゥリアス王国のアルフォンソ2世は「星=Stela」の「原野=compo 」『コンポステーラ』と名付けられたその場所に、サンティアゴ教会を建設し、教会に隣接する領域を囲んで「聖なる空間」としました。
奇跡の発見に人々は歓喜し、その大聖堂を目指す巡礼が始まります。
それは711年 キリスト教徒達が暮らしていたイベリア半島にイスラム国家・ウマイヤ朝の手が伸び、征服されて以来 半島がイスラムに支配され、北に追いやられたキリスト教国が国土を回復する悲願をいだいていた『レコンキスタ』の時期とも重なり、最盛期の12世紀には、年間50万もの人が巡礼を行ったといわれています。
https://sekainorekisi.com
ヨーロッパ各地からコンポステーラに向かう巡礼路が整備されていきました。
フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路の主なものは4都市を基点とし、それが2つになってピレネー山脈を越えてスペインで合流し、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラへと続く路です。
by https://worldheritagesite.xyz/santiago-de-compostela-in-france/
ピレネー山脈の麓からサンティアゴまでは、ピレネー山中のロンスヴォーやソンポルト峠、ガリシア地方のレブレーロ峠など多くの難所を含んでいました。峠道では雪や霧で遭難する人が後を絶たず、逆に炎天下での北部スペインの赤茶けた中央台地=メセタ踏破は、巡礼者に過酷な試練を強いました。
by https://photohito.com/photo/orgshow/3543532/#lg=1&slide=706
(左上)フランス1美しい村と評されるConquesコンク村(右上)11世紀ナバラ王妃が巡礼者のために建設を命じたと伝わる『王妃の橋』(左下)メセタの台地
人々の営みの温かさと絶景が巡礼者の背中を押してくれるのが分かるような景色…
巡礼者は通行手形や巡礼証明書を持ち、黒いマントをまとい、つばの広い帽子をかぶり、ひょうたんに水を入れ、杖をついて歩きました。現在でも巡礼のシンボルとして標識や巡礼者のバックパックに下げられているホタテ貝は、聖ヤコブの象徴とされ、中世の人々は首から下げ、皿やコップとして使い、時にはマントに何枚も貼り付けて雨をしのぐなど、巡礼に欠かせないお守りでした。
https://openlab.citytech.cuny.edu/arth11036415f2012/2012/10/13/discussion-topic-pilgrimages-then-and-now/ https://photohito.com/photo/orgshow/3543532/#lg=1&slide=706
https://wondertrip.jp/53930/
ローマ・カトリック教会は「大巡礼を行えば天国に行ける」と、この巡礼を推奨しました。民衆も贖罪を願い、彼らは立ち寄る聖堂で聖人の遺骨や遺品などの聖遺物に触れることで自分の罪が消えることを願ったのでした。
12世紀に書かれた『サンティアゴ巡礼案内書』には、ルートのほか、法外な船賃の渡し船、追剥、巡礼者を食い物にする両替屋への注意点や、宿や店の案内まで書かれています。
しかしその後ペストや戦乱といった危機により巡礼は徐々に下火になって… 巡礼路はだれも歩かない道になっていきました。
劇的に変化したのは今世紀に入ってから…年ごとに巡礼者の数は増え続け、2018年には年間35万人を突破! 中世に迫る勢いです。
Tarta de Santiago タルタ・デ ・サンディアゴ
by https://www.acasadasbentinas.com/catedral-de-santiago-de-compostela/
Tarta de Santiago(タルタ・デ・サンティアゴ)は目的地サンティアゴ大聖堂に到着した巡礼者たちを待っていてくれる伝統菓子です。
タルタは日本では「タルト」としておなじみの「円形ケーキ」のこと。
9世紀 サンティアゴ・デ・コンポステーラのあるイベリア半島北部一帯はアストゥリアス王国というキリスト教国でした。この頃のアストゥリアスは北からのバイキングと南からのイスラム勢力の襲撃の板挟みに悩まされていました。
アストゥリア国王ラミロ1世が侵略してきたイスラムのムーア人を向かえたクラビホの戦いで、800年も昔に生きたはずの聖ヤコブが馬に乗った騎士の姿で現れ、勝利に導いたとの言い伝えが残ります。その時聖ヤコブが掲げた旗印:「赤い剣とアヤメの十字架」は『サンティアゴの十字架 Cruz de Santiago』とされ、この時から聖ヤコブはスペインの守護聖人となりました。
12世紀には、サンティアゴ・デ・コンポステーラへの道を行く巡礼者達をムーア人から守るためにサンティアゴ騎士団が形成されます。旗印はもちろんサンティアゴの十字架…
この町の修道院で修道女たちの手によって、生み出されたのが『タルタ・デ・サンティアゴ』です。その材料はいたってシンプルで、地元特産のアーモンドを砕いた粉末と、卵、砂糖のみ!焼きあがったケーキは粉糖で飾られ、型抜きされた『サンティアゴの十字架』が印象的です。
もっとも古い記録は1577年サンティアゴ大学を訪問したペドロデポルトカレロによるもので、当時このケーキは『Torta Realトルタレアル』:「ロイヤルケーキ」と呼ばれていたことがわかります。今ではサンティアゴ・デ・コンポステーラの街のお菓子屋さんやいくつかの修道院でも販売されています。小麦粉を使わず、ボディーは全てアーモンドの粉末の『タルタ・デ・サンティアゴ』は、挽きたてのアーモンドの香りと軽やかなコクそしてほろっと崩れそうな食感が魅力です。…ただし、崩れやすいので、お土産には不向きかも!?
by https://www.recetasgratis.net/receta-de-tarta-de-santiago-tradicional-51858.html
ということで、もう1品…『Caprichos de Santiagoカプリチョス デ サンティアゴ』も地元の名物菓子で、軽くて、崩れにくく、かつ美味しい!巡礼のお土産はこちらが良さそうです。
この『カプリチョス』の材料の基本となるのはアーモンドパウダー、卵といっても『卵白』のみ使用、そして砂糖と、こちらもいたってシンプル 『カプリチョス』とは「気まぐれ」の意ですが、素材も作り方も『マカロン』です! 近年フランスの名店『ラデュレ』の洗練された品が人気ですが、イタリア発祥のマカロンが修道院つながりでしょう…スペインの西北端のサンティアゴ・デ・コンポステーラでもこのように素朴な姿で作り継がれて、素材の味がダイレクトに感じられる逸品はこれからもお土産菓子として愛されていくことでしょう。